002
すまん、全然3話じゃ終わらんわ
――どうして私が心細い時にいてくれないの!?
――そうですか。先輩にとって、私はその程度ですか。
――分かった。仕事、行ってくればいいよ。
「……」
目を覚ますと、背中にびっしょりと汗をかいていた。嫌な目覚めだ。顔を洗ってもじっとりと残る感触に辟易としつつ、俺は、寝る前に買ってきた新しいブラシで歯を磨く。
夢の中で夢を見ることは、ドラえもんの気ままに夢見る機でしかありえないのだから、逆説的にここがlycの世界であることを決定付けたと言っていいだろう。ゲームの世界二日目。新たな門出には、少しばかり憂鬱な朝だった。
「葵、朝だよ」
「……んぅ」
毛布に包まっている葵に声をかけると、彼女は薄目で俺を見てから笑って俺の手を握り、ついで当時はまだ少し珍しかった初期型のスマホに手を伸ばす。
「あれ、まだ5時じゃないですか。学校は9時からですよ」
「……そういやそうだったな」
いつものクセで4時半に起きてしまった俺だった。
建築屋という生き物の朝は早い。いつもはメールをチェックしながら飲むコーヒーの準備も、今日に至っては虚しいだけだ。
「というか、帰ったんじゃなかったのか。同じベッドで寝てて気が付かない俺もどうかとは思うが」
「両親には友人の家に泊まると伝えてあります」
……ちゃんと報告出来て偉いね。
「な、なんで撫でるんですか」
キミが子供だからだよ。
「ふぅ」
二度寝するというのも性に合わないのが俺である。蔵書も興味のない漫画本だけ。せっかくだから、俺は再び葵に掛布団を被せ、用意してあったジャージに着替えると、やかんの火を止めて一人散歩に出かけることにした。
せっかくのゲームの世界なのだから、十角館や眼球堂のような珍しい形の建造物があってもよさそうなものだが。見つかるのは一般的な家屋ばかりである。
どこかで見たことのあるような懐かしさを感じる、しかし作られた箱庭の景色。ひんやりとした空気の中、遠くに聞こえるバイク配達のスーパーカブのエンジン音が、そういえば明け方にイヤホンもせず外出するのは久しぶりであることを思い出させてくれた。
「……」
俺は、昔から恋愛が苦手だ。
高校で初めて出来た恋人とは部活の忙しさから喧嘩して別れ、大学で付き合っていた恋人とは研究の忙しさで別れ、結婚するんだと思ってた直近の恋人とは仕事の忙しさを理由に別れた。
当時は「どうして俺を分かってくれないのだろう」と悩んだり……。いや、責任転嫁して悲劇を気取ったりしていたが。本当は全部が俺のわがままだと分かっていてた。
俺は、恋愛に縛られることが怖かったのだ。
いつだって『忙しさ』を理由にして、誰かを守る責任から逃げていた。今でこそ、そうやって自分の弱さを認められるようになったものの、やはり根本の部分では何も変わっていないのだろう。
俺は、俺がやるべきだと感じているものを邪魔されることを心から嫌悪する。もしかすると、俺がこの世界に囚われてしまった理由は、そんな俺を罰するために世界が仕組んだからなのかもしれない。
本当に、当時の俺はただの興味本位でlycに手を出した。しかし、逆に言えば興味本位でゲームに手を出せる程度には暇があった。もっと言えば、いつの時代にだってその程度の暇があったのだ。
それらの時間を、ほんの少しでも彼女たちへ分けてやるべきだったのかもしれない。そんなことを、こんな取り返しのつかない状況に追い詰められるまで気が付かない俺の、なんと愚かで浅はかなことか。
夢に見て嫌な汗をかくほどのトラウマ。そんな失敗を、俺は人生であと何度経験するのだろう。
「……」
それとも、きっと何もやるべきことのないこの世界ならば、俺は恋愛を真摯に受け止められるだろうか。
今の俺には、答えは出せなかった。
「あ、いた」
いつの間にか、ぼんやりと河原で座り込んでいた。朝日は山の向こうから昇ってきている。それなりの時間考えていたらしい。後ろから光を受けて輝いている葵は、僅かばかり目に涙を浮かべているように見えた。
「書き置きしてあったろ」
「でも、ダーリンは嘘つきですから」
「……ごめんよ」
あぁ、また謝ってる。
本当に、俺って女に謝ってばっかりだ。
✕ ✕ ✕
学校についてまず思ったことは『どういう構造をしているんだ、この建物』だった。
どうにも、不思議な力で成り立っているようにしか思えない。日本の構造物とは思えないほど杜撰な耐震構造は一旦置いておいて、梁はスカスカ、耐火被覆は無し、配管やダクトは一種だけ。その割には空調設備と水道にトイレも充実しているという始末である。
恐らく、この校舎をくまなく探したとしても、コア抜きの痕跡など見つかる由もないだろう。いや、下手すればこの壁の中、鉄筋が入っていないんじゃないだろうか。杭が打ち込んであるとはとても思えない。挙句の果てに吊り天井は……。いや、吊り天井だよな? これ。浮いてないよな?
もはや魔法だ。もしくは、巨大なレゴブロックだ。
この世界に新たな建造物が誕生するのかという形而上学的な疑問が解決することは、もちろんあり得ないのだろう。新しい命が生まれないのなら、新しい建物だって必要ないに決まっているから。
余談だが、建築学や数学の理論自体はちゃんと存在しているため、実物だけがゲーム的というあべこべな状態になっているらしい。大して気にするようなことでもないだろうが、職業柄、いちいち文句をつけてしまうのも俺の悪いところの一つだと我ながら思う。
「どうしたんですか?」
「いや、ここがゲームの世界なんだなって改めて思っただけさ」
そんなわけで、俺は少し照れくさい学生服のネクタイを締め直してポケットに手を突っ込み、薄いスクールバッグを小脇に挟んで廊下を歩いた。
ペラペラの上履きの感触。パタパタとなる足音。教室から聞こえてくる喧騒。別に俺が通っていた高校というわけでもないのに、なんだか懐かしい気分になる。
……まぁ、ある意味では通っていた学校か。少なくとも、主人公として来ていたわけだし。
「おはよう」
「おはよう。えっと、康平。……だよな?」
「あぁ? 何言ってんだお前。他の誰に見えるってんだよ」
「……少し寝ぼけてたんだ、悪いな」
なるほど。
つまり、主人公との会話の回数が少ないキャラクターほどAIの学習機会に恵まれておらず、この世界の仕組みに気が付くような知識を持っていないということか。だから、平面上の連続した時間、つまり同セーブデータ内の時間しか認識出来ず、前回に起動した時と前と同じような態度をとっていると。
……ならば、一途に葵だけを口説いていたこのlycの世界では、葵だけが世界の仕組みに気が付いているということになるのではないだろうか。パソコンを起動し、ひっそりと稼働していたアプリケーション内で、ただ一人、画面の外の俺を見続けられたのではないだろうか。
その孤独とは、一体どれほどのものだったのだろう。
「なんですか? ダーリン」
そりゃ、病むわな。
「なんでもない。それより、お前も康平に挨拶しろよ。隣のクラスとは言え、知らない仲じゃないだろ」
罪悪感を払拭するように葵の頭を撫でると、彼女は「わっ」と俯いて照れくさそうに髪の毛を直した。
一応説明しておくと、葵は同じ二年生で隣のクラスの生徒である。繋がりとしては生徒会に所属していることで、出会いは新年度の生徒会発足時。彼女は副委員長で俺は庶務。色んなイベントの工作員として活動していくうちに、なんだかんだでいい感じになったという馴れ初めである。
「おはよう。確か、副委員長の四条さんだよね。ひょっとして、こいつと付き合ってんの?」
どうでもいいことだが、高校生にタメ口をきいてもらえるとなんだか気持ちがいいな。意匠の肩書で凝り固まった俺の中の常識が、彼のお陰でフラットに慣らされていくような気がする。
「は、はい。その、よろしくお願いします。えっと、康平さん」
「はは、よろしく。なんだよ、言ってくれよな。お前も隅に置けない奴だな〜」
「機会がなかったんだ、許してくれ」
「四条さん。こいつ、普段はこんな感じだけど意外と頼り甲斐はあるんだぜ? 文化祭の飾り付けとか、全部こいつが設計して指揮も執ったんだから」
「そうなんですか」
まぁ、そういうイベントだったからな。
「流石、建築屋さんですね」
全部お見通しとばかりに、葵は耳元で囁きクスクスと笑った。これはつまり、『隣のクラスにいても全部バレてるぞ』という脅し文句なのだろうか。確か、同クラスのヒロインに浮気するようなことはしていなかったと思うが。
「あと、康平さんは私をナメているのでしょうか。そんなこと、私が知らないわけないのに」
「落ち着け」
楽しそうに話す康平と、俺の話題でいちいちピキッている葵に板挟みされながら歩いていると、いつの間にかクラスに辿り着いていた。手前が葵のクラス。一つ奥が俺のクラスだ。多分。
「じゃあ、また後でな」
「浮気したら殺しますよ、相手の女を」
……突然の殺人宣言に、これはなんとしても変な誤解を生むような行動だけは慎むべきだと思った。
思っていたが、昼休みにそれは起こってしまったのだ。
「ねぇ、ちょっといいかな」
声をかけてきたのは、俺のクラスの委員長だ。広坂美怜。彼女は、例えば俺が一人の女を自由に作り出せる権利を得たとすれば、きっとこんなふうに設計するだろうな、と言ったようなパーフェクト美少女である。
「なにかしら」
「ふふっ。えっとね、キミだけクリスマスパーティーの出席確認が遅れてるの。悪いけど、今日中に出してもらえるかな」
……あぁ。
そういえば、lycにはエンディング後のお楽しみイベントとしてクリスマス会なるものが用意されているらしかった。無事にヒロインと結ばれることの出来たプレイヤーへ対する、いわば制作スタジオの『デレ』の大トロ的な催しであるらしい。
なぜ俺がそんな大切なシーンをプレイせず放置していたのかと言えば、単純に葵を落としてゲームに飽きたからである。何度もしつこいようで申し訳ないが、俺は話題性だけで購入したミーハーのため、やりこみ要素にまで興味はなかったのだ。
「クリスマス会の出欠、これか。はい、どうぞ」
俺は、机の中にしまってあった用紙の出席に二本線を引き欠席に丸をつけた。
「……出ないの?」
「あぁ、ごめんね」
「そんな! 私たちクリスマス実行委員も、結構頑張って用意してるんだよ!? あなたに来てもらえないと、私悲しいよ!」
言いながら、広坂は俺の手を握って実に悲しそうな顔をした。それを見た周りの生徒たちは、一体何事かと注目してくる。最初に目に入ったのは「あらら」とでも言いたげにニヤけている康平。そして、次に目に入ったのは入口のところで手に持っていた弁当箱を廊下にぶちまけた葵であった。
あぁ、これは実にマズい。
好きな男の歯ブラシを舐めるような女がこの状況に対して何も思わないわけもなく、加えて、今朝、律儀に殺害予告まで残していったのだから事件が起きるまで秒読みなのは間違いないだろう。
「お願い、来て欲しいな」
一瞬だけ広坂に視線を逸らしたのがマズかった。葵の姿がない。凶器を取りに行ったに違いないと確信した俺は――。
「悪い、広坂。その話はまた後で」
彼女の手を離すとすぐに葵を追いかけた。既に廊下に姿は見えなかったが、向かった先は家庭科室だろう。あそこには包丁がある。痛くなりつつ頭を抑えて走ると、階段を登った先に葵はいた。
「落ち着け」
「あの女はダーリンを惑わす悪魔です。祓わなければいけません」
「落ち着けと言っとるのに」
強引に手を掴んでこちらを向かせると、彼女は何の感情も読み取れない闇みたいな瞳をしていた。なにか一つでも選択肢を間違えれば終わる。俺は、最初にこの世界で目を覚ましたときのように、深く深く葵を観察することにした。




