第21問 「ちょっとしたクイズ」その10・解答
出題した図を全部変換すると次のようになります。
ですので、答えは
① 綱吉(5代)②慶喜(15代)③吉宗(8代)
となります。
さて、文字数も足りませんし、割烹に載せた「鎌倉幕府・執権」についての説明をせっかくなので載せておきます。
●北条時政(初代)
鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻「北条政子」の父。
頼朝の死後、その嫡子「源頼家」が二代将軍になると、頼家では不安、と感じた幕府の有力者たちにより「十三人の合議制」とよばれる政治体制になります。
その後、北条時政は有力御家人を次々と滅ぼしていきます。このとき、源頼家のバックにいた比企家も滅ぼされ、頼家は将軍職を廃され、流刑。北条時政は頼家の弟の「源実朝」を三代将軍に就け、自らは「執権」と呼ばれる地位に就いて将軍を補佐しました。
●北条義時(2代)
「北条時政」の次男で「北条政子」の弟。頼朝の死後に頭角を現します。
北条氏による有力御家人排除は時政・義時親子が一体となって行っていますが、牧氏事件で父子は対立。その後「北条時政」を伊豆へ追放し、第2代執権となります。
「源実朝」が暗殺されたあと、頼朝の遠い親戚である藤原頼経を四代将軍として迎え入れました。しかし藤原頼経は当時生後1年の子供で征夷大将軍に任じられる状況になかったため、「北条政子」が頼経の後見として代行し、義時がこれを補佐することで実権を握る「執権政治」が確立しました。
しかしこの将軍後継問題で「後鳥羽上皇」との対立が顕著になり、1221年、後鳥羽上皇は倒幕の兵を挙げます。これが「承久の乱」です。しかしこの乱はわずか一カ月後、幕府軍の完全勝利で幕を閉じました。
●北条泰時(3代)
「北条義時」の長男で、義時が急死した際、伯母「北条政子」の指名を受けて三代執権となります。政子の死後、独自の方針で政治家としての力を発揮できるようになりますが、実質政子の専制体制だったものを、集団指導制・合議政治を打ち出し、自らはこれらを取りまとめる責任者となったことから、泰時を「初代執権」とする説もあります。
また幕府を移転し、賞罰は自らが決定する旨を宣言したことで、将軍独裁から合議的な執権政治に変わったことを明確にしました。同時に鎌倉殿(=将軍)は名目上の存在になりましたが、泰時自身はあくまで「最高権威は鎌倉殿」であることを強調し続け、自ら主従関係の模範になろうとしました。
集団指導体制を行うには抽象的指導理念が必要となり、律令などの貴族の法を勉強した結果、頼朝時代の先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる法典、「御成敗式目」を定めました。
●北条時宗(8代)
5代執権「北条時頼」の嫡男。6代「長時」7代「政村」は時宗が成人するまでのあくまで代行です。時宗は18歳で8代執権となりました。
「1274年・文永の役」「1281年・弘安の役」――いわゆる「元寇」の時の執権として有名ですね。戦前までは日本の国難を救った英雄と評されました。
この「元寇」で元軍に大損害を与えた暴風雨は「神風」と呼ばれ、第二次世界大戦中の「神風特別攻撃隊」の名前の由来にもなっています。
NHK大河ドラマにもなっていますね。2001年、和泉元彌さん主演です。
一応自分なりに理解して説明したつもりですが……大丈夫かな?




