第109話 『クリスタルサーモンの刺身』
奥の調理場から、冷気と共に重厚な金属製のトレイが運ばれてきた。
そこの上に横たわっていたのは、全長一メートルを超える、銀色に輝く魚だった。
「……うわ、何これ。アキト、これが……お魚なの?」
ミナは興味を隠せずに覗き込む。水晶のような鱗が幾重にも重なり、室内の光を虹色に散らす一匹の「生物」としての姿は、食べるのが惜しくなるほどに美しい。
「こいつは『クリスタル・サーモン』だ。この星の海が育んだ、最高級の脂を蓄えている」
コーディネーターの男が、その銀鱗を指先でなぞった後、卓上に並べられた小皿と黒い液体に目を留めた。
「……小皿に醤油まで用意して。それの中身を知ってるってんなら、生はいける口だな?」
「ああ」
俺が短く答えると、男は不敵に笑い、無骨ながらも極限まで研ぎ澄まされた包丁を握った。
「……マスター。本個体は極めて良質な脂質を含んでおり、生食に最適です。寄生生物等の生体反応も確認できません」
ルシアの簡潔な報告が、期待をさらに煽る。
そこからは、まさに儀式だった。
男はまず、包丁の背を使って硬質な鱗を剥がし始めた。カチカチと澄んだ音を立てて水晶のような鱗が弾け、キラキラと舞う。そして包丁を寝かせ、銀の皮に刃先を滑らせる。一切の迷いがない太刀さばき。脊椎に沿って刃が走るたび、骨に当たる微かな音さえさせず、吸い込まれるように身が剥がれていく。水晶のような鱗が弾け飛び、中から現れたのは……見たこともないほど鮮やかな、淡いオレンジ色をした身だった。
職人の指が動くたび、断面から滲み出した脂が、照明を受けてキラキラと輝く。
彼は身を薄く、かつ角を立てるように引き、それをキンキンに冷やされた皿の上へと並べていった。
「さあ、食え。これ以上の『本物』は、この星のどこにもねぇよ」
目の前に置かれたのは、透き通るようなオレンジ色の刺身。
俺は箸を伸ばし、先程注いだ「海草醤油」の黒い雫に、その一切れをそっと浸した。醤油の香ばしい匂いが、サーモンの白い脂を包み込む。
口へと運ぶ。
「――っ!!」
噛んだ瞬間、体温に触れたサーモンの脂が、とろりと溶け出した。
舌の上で溶けた脂の甘みが、口いっぱいに広がっていく。濃厚なコクがあるのに、後味は驚くほどすっきりとしていて、噛むたびに魚の旨味が溢れ出してきた。
海草醤油の香ばしい匂いは、俺が知る本物の醤油と比べても全く遜色がない。その香りがサーモンの味を完璧に引き立て、一切れの刺身としての旨さを極限まで高めている。
「おいしい……! アキト、これ、スター・ツナの時とも全然違うよ! あの時はエネルギーを食べてるみたいだったけど、これはもっと、身そのものの味が濃くて……醤油と合わさると全然止まらなくなる!」
スター・ツナとはまた異なる、本物の魚の刺身にミナが目を輝かせた。
「……驚愕ですぅ。海草醤油のコクが、サーモンの甘みをさらに奥へと押し広げていますぅ。これが、本物の魚……!」
スター・ツナの時は「生食」への忌避を表明していたエマルガンドも、今はその抵抗を完全に忘れたかのように、夢中で箸を動かしている。うまいとわかれば食う。なかなかたくましい奴だ。
ルシアもまた、一切れを咀嚼し、静かにその余韻を反芻していた。
「……マスター。これが、あなたの求めていた『正解』の形なのですね。確かな質量を持った美味しさです」
俺は最後の一切れを口にし、鼻へ抜ける香ばしい余韻をじっくりと味わった。
「……ごちそうさま。最高だった」
俺が深く頭を下げると、コーディネーターの男は満足げな笑みを浮かべた。
「……醤油を知ってるあんたにそう言われるのは、悪い気はしねぇな。だが、感傷に浸るのはそのくらいにしな」
男は空になったトレイを片付けると、さらに奥の調理場を見やりながら、不敵に告げた。
「こいつはほんの挨拶代わりだ。見せてやりたい料理はまだまだ山ほどあるし、別の魚も用意できる。……次は何を食いたい? 焼きか、煮付けか、それとももっとヤバい獲物か」
その言葉に、俺は笑みを抑え切れなかった。
刺身ひとつで終わるわけがない。この広大な蒼い星には、まだ俺の知らない「本物」が、無数に眠っているのだ。
地球のサケは川で生まれる?はて……
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