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眠れぬ龍の夢  作者: 森 彗子
第9章
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他愛のない日々へ 3

「真央が追い付いてきて、俺にグッドサインをくれたんです。彼女は余裕でした。それがまたカッコいいんだ……。


 地上に降りてフラフラな俺の手を引っ張って立たせてくれて、ご機嫌な声でどうだった? って聞かれて。


 彼女が幸せそうに笑っていたから、僕はつい調子に乗ってプロポーズしたんです」



 信じられない展開だが、気持ちはわかる。俺はにやにやしながらその話に耳を傾けていた。



「そしたら真央、そうねって軽く返事をくれて。あっさりOKしてくれました。それからというもの、僕は彼女の愛の奴隷です」



 愛の奴隷。


 懐かしい言葉に、俺の胸は躍った。かつて俺も、夏鈴との結婚式でそんなセリフを吐いたことを思い出した。



「付き合って一年後、正式にプロポーズしたら、もっと早く言えばいいのにって叱られちゃいました」



 笑うとどこか、俺と似ている気がする蒼井さんは喋りながらも必要量の山菜を収穫して、山を降りた。



 ギャラリーBLUESTARの【忘却】前で、夏鈴はひとり佇んでいた。


 近付いて顔を覗き込むと、夏鈴は泣いていた。


 涙に塗れた横顔がじっと【忘却】に向けられ、俺は声をかけることが出来なかった。




 真央さんがやって来て、俺の隣に立つとそっと教えてくれた。


 夏鈴は波戸崎龍にレイプされたことで辛い思いをしている。


 そして、自分の使命を途中で投げ出したことでも自分を責めてしまう。


 野々花さんや美鈴さん、爺さんや夏希さんに守れたことを素直に喜べないのだ、と真央さんに打ち明けていた。



「……夏鈴ちゃんて、出会った頃のあなたみたいね」



 慈愛に満ちた母親のような声で、真央さんは寂しそうに微笑んだ。



「自分の幸せに対して、ハードルが高いのよ。自分を愛するってそんなに難しく考えることじゃないのに。あれをしたから、これを諦めたから、なにを失ったから。そんなんで自分を許せなくなるって、苦しいわ。


 残りの人生の時間を考えたら、私なんて立ち止まることも惜しい。のんびり過ごす時間さえも、慌てて享受するっていうのに……」



 矛盾のある言い回しだけど、なんかわかる気がした。


 夏鈴を真央さんにお願いして、俺は燿馬と恵鈴を東京に送り届けた。日常に戻るために、二人とも一連の出来事で巻き込んだ友人たちに連絡を取ったり、やることを片付けるからもう大丈夫だと言い張ったから、俺はとんぼ返りで夏鈴のところに戻った。


 北海道に帰るその時まで、夏鈴は【忘却】の前に立ち続けた。


 物言わず絵を見ては涙を流す。


 でも、気が済んだ頃にはすっきりとした顔をした。




 真央さんは、夏鈴のためにこの高価な絵を俺達に貸してくれたんだ。


 それにきっと、燿平さんの意思なのかもしれない。


 【忘却】は一番最初俺が描いた絵だった。


 でも、原画はもうない。


 俺のために最期に描いた絵が、画家 田丸燿平の【忘却】で、永い間東京のアートギャラリーの看板になっていた凄い絵が、俺たちの生活空間に在ることがもう奇跡みたいな話だ。



 夏鈴はあの日と同じようにしばらく言葉もなく【忘却】を愛でていた。



 大きな絵に傷をつけるわけにはいかなくて、もうひとつの額を組み立てて設置するのに俺と恵鈴と耀馬でかなり頑張った。リビングの西側にある壁にちょうど良く収まってくれて、夏鈴専用の椅子を設置した。


 交代で風呂に入ってからあとは寝るだけになったタイミングで、突然恵鈴が豹変した。


 幻覚なのかわからなかった。


 夏鈴に似た背格好だったはずの恵鈴が、少しだけ背の高い若い男に変身したのだ。それはどこからどう見ても、夏希さんだった。



「夏鈴」



 絵に没頭していた夏鈴は、ゆっくりと振り返った。


 そして変身した娘を見て、目を見開いた。


 驚きながら立ち上がる。



「……お、お父さん?」



 震える声で、そう言った途端。夏鈴は視た事がないぐらい顔をくしゃくしゃにした。


 父と娘は初めて抱き合った。



「うわぁぁぁぁぁぁ………」


 夏鈴の鳴き声を聞いていると、俺まで胸が締め付けられる。

 自分が生まれる前に死んだ父親に、憧れてきた夏鈴の夢が叶えられた。


 それだけでもう充分に胸がいっぱいになった。


 夏希さんはしばらく微笑みながら夏鈴の頭を撫でていた。

 泣き声が落ち着いた頃、やっと体を離して顔を見る。


「良く顔を見せてごらん、夏鈴。やっと会えたね」


 夏鈴はまだ声にならないようで、うんうんと首を縦に振った。


 涙がポロポロと真珠のような大粒の雨を降らせている。


 それを見て、夏希さんは困ったような顔をした。



「寂しい想いをさせたけど、ぼくもすごく寂しかったんだ。お前を抱き上げることも叶わなかったからな……。こんなに立派に成長して、双子の男女を育てた。困難があっても前向きで、晴馬君と二人で良い人生を送ってる……、安心したよ」



 夏鈴は泣きびゃっくりをしながら、顔を真っ赤にして夏希さんを見つめた。



「……お父さん、おとうさん、お父さん……!」



 色んな想いが詰まった呼びかけに、夏希さんの目からも涙が落ちていく。



「ありがとう、夏鈴。ぼくのこと怒ってただろう? 良いよ。言いたいことがあるなら、なんでもぶつけてくれ。父親らしいことをひとつも出来なかったから、気が済むまでお前の話を聞くから」



 夏鈴は両目をぎゅっと瞑って、夏希さんに抱き着いた。



「おとうさん、どこにも行っちゃやだよ!!」



 怒鳴るようにそう叫ぶ。

 夏希さんは笑いながら泣いて、夏鈴の背中をさすった。



「どこにも行ってないよ。ずっと、お前と美鈴のそばに居たんだよ。お前には視えなかったけど、野々花さんと二人でいつもお前たちのことを見守っていたんだ。


 虐められて学校を飛び出して、波戸崎家の墓にしがみついて大泣きしたときもそばにいた。お前を見てた。


 殺人鬼がお前を襲った時も、美鈴とお前を出来る限りの力を振り絞って守ってやろうと頑張っていた。微々たる助けにしかなれなかったけど……」



 夏鈴が無限ループした時のことを言っているのだろう。

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