眠れぬ龍の夢 8
「顔を見るのは初めてだものね」
美鈴さんが乱れた髪を耳にかけながら、しゃがんだ彼の肩に手を乗せた。
その隣に立つ爺さんは、若返っていて周囲に気を配っている。
「早くしなさい。黒龍は石櫃に戻り、力を溜めたらまた来るぞ。油断するな」
「晴馬君、不思議だね。僕はいつも、夏鈴の中から君を見ていた」
「……夏希さんですね」
こくりと頷くその仕草も、夏鈴に似ている。
「家族には、視えない。それがこの世の掟だからね。でも、君になら僕を見つけられると思ってた。こうしてこっちに出て来れたのは、君のおかげだ」
「あまりゆっくり話は出来ないわ。視て!!」
俺が入ってきたトンネルからぞろぞろと再び、自分の意思を失くした者たちが隊列を組んだように歩いて来ている。崖に張り付いたように設置されている木造の階段を降りている。
「彼らは長年、黒龍の闇を吸い込んでいたから意思を奪われている。このまま、石櫃に向かって行って一人ずつ自ら傷付けて血を捧げるのよ」
「止めないと、過去最悪の生贄祭りになるな」
「生贄祭り!?」
――――― こんな山奥で、血生臭い祭りがあったもんだ。
「君を巻き込んで申し訳ないが、君と夏鈴が出会った時からこうなることは決まっていたんだ。僕が美鈴と出会い、夏鈴が生まれる前に僕が死ぬことも決められていたようにね。
夏鈴は父親の愛を知らない。その寂しさが君に向かわせた。
本当にこの世は上手く出来ているよ。
黒龍を倒すために、定められた運命を無意識になぞるんだから……。
だけど、僕は美鈴に出会い恋に落ちたことは自分自身の意思だと思ってる。
それは君も同じだろ?」
夏希さんの瞳から涙が零れ落ちた。
泣き方まで父娘はそっくりで、俺の目は吸い寄せられ続け、彼の言葉に計り知れない様々な感情を感じていた。
「もちろん。俺は自分の意思で、夏鈴に惚れたんです!」
自分の言葉に今、俺の魂が震えた。
鮮やかに蘇る。
夏鈴に出会った瞬間、彼女の小さな体を抱き上げた瞬間。
俺の心の中があっという間に光で満たされていくような体感があったことを。
夏鈴の泣き声が俺を呼んだ。
俺は夢中で彼女に駆け寄った。
迷いも躊躇いもなかった。
抱き上げ、抱きしめた途端に、もう。
俺の恋は始まっていた。
まだ若かったからわかっていなかったが、
あの瞬間から俺と夏鈴はもうとっくに番になっていたんだ。
触れる体から感じるのは邪な欲望以上に
傷付けたくない、大事にしたい、そんな強い想いが溢れた。
そうだ。
だから、俺は。
暴走しそうな自分に気付いた時。
獣になりそうな自分から夏鈴を守るために離れた。
お互いにとって辛い十年間だったが、
お互いにとって恋慕の情を育てるためにも必要な孤独だった。
あの孤独が、その後の俺たちの絆を不動の物にしている。
なにひとつ間違えてなんかいない。
そのどれもが運命に定められていたとしても、
俺も夏鈴もただ自分の意思でそうした。
運命の力だと言われようと、
それでも俺たちは意思に従い貫いてきたと自信を持って言える。
自分で選んだ。
だから、誰のせいにもしない。
運命のせいにさえも、しないんだ。
「君は、夏鈴が呪われた血の娘だと知っていたらどうしただろう?」
意地悪な質問。
でも、この人もまた運命を自分の意思で辿って行ったのだろう。
爺さんも、美鈴さんも、野々花さんだってそうだ。
誰一人、惰性で選んだわけじゃない。
「……呪いなんて気にしたことは一度もなかった。町の人達が、夏鈴の家族を怖れるのを見ていたが、俺には波戸崎家の方がよっぽど強くて綺麗な生き物に見えた。
だから、どんな出会い方をしても俺は夏鈴を愛する道を選んだと思います」
妻の父親が俺と真っすぐに向き合う。
笑顔が消えた真剣な顔は、もっと夏鈴に似ていて少し驚いてはいたが―――。
「それが聞けて嬉しいよ。君と父と息子としてもっと語り合いたいが、それは無理らしい。
この戦いが終わったら、君たちの前から全部が消えるだろう……。
これが最初で最後だ。……君と話せて良かった。夏鈴をよろしくお願いします」
夏希さんに頭を下げられた。
まだ若くして亡くなった時のままの、俺よりもずっと若い姿恰好をした妻の父親に初めて会い、娘を託したいという想いがしっかりと伝わってくる。大事なお嬢さんを、俺は貰ったのだと改めて実感した。
「そして、夏鈴に伝えてくれ。僕はいつも君に寄り添っていたということを……。この戦いが終われば、僕や美鈴、黒桜さんと野々花さんは、いよいよ天国の住人になる。
あの子に直接会えることはないから……」
「……はい」
夏希さんの手が触れていく場所の痛みが薄らいでいく。
迫りくる人々の足音やうめき声が、終わりの時を告げた。
「美鈴、黒桜さん。ありがとうございました」
夏希さんは礼儀正しく二人にお礼を伝えると、俺の手を取って立ち上がらせてくれた。
「身も心の傷着いた夏鈴を、よろしくお願いします」
「言われるまでもないですよ!」
「君が義息子で嬉しいよ」
男同士の握手をし、そして同じタイミングで手を離した。
迫りくる人々の群れの中に、波戸崎龍がいる。美鈴さんはそれを見て、悲しそうに言った。
「この子はもう救ってあげられそうにないわね……。黒龍に、すっかり心を食われてしまってる……」




