真実は闇の中 9
「二人の愛が本物だっていうなら、奇跡は起こせますか?」
冷やかし半分、本気半分の、どうしようもない低俗な嫉妬をも含んだその問いを、夏鈴にぶつけて見たが、彼女は浅い呼吸と虚空を見つめ続けるだけだった。
手が冷たい。
夏鈴の体温が下がっていく。
龍は決断しなければならない。
この部屋から夏鈴を連れ出すことはできない。
見えない力が彼女を離さない。
ここにあの男を連れて来るしかないのか。
歯ぎしりするほど大嫌いな、あの男に。
最愛の女神を返さなきゃいけないなんて。
そもそも、彼女は一瞬たりとも龍に心許してはいなかった。
彼女の慈愛はあくまで哀れみと慈しみであって、本物の愛ではない。
「あなたが感じてる孤独も寂しさも、きっといつかあなたを幸せへと導く光になる。
北極星があなたの行く先を教えてくれるわ。きっと、もう大丈夫よ」
力強い予言を与えてくれた恩を返すならもう、それしか思いつかない。
夏鈴が望むならば最愛の夫を連れて来る。
他に選択はないようだ。
龍は、畳の上に夏鈴を置いて後退するように刀の部屋を出た。
乱れた衣服を整えて細長い影と共に祈りの間を抜けて、屋敷に戻って行った。
屋敷に戻る途中で、祖父である千歳専属の従事者が龍を見つけて縋るように訴えてきた。
「千歳様が……!」
彼は完全に自分が誰かもわからなくなってしまったようだ。報告を受けた龍は、これから始まる夕食会に千歳を連れていくべきか考えた。
刀と呪い箱の力の制御ができなくなった祖父から、一気に沢山の謂われぬモノが夏鈴に押し寄せているのだろうが、これでもしも夏鈴が死んだらもう誰にも止められない。自分も両親のように、この呪いを受けて恐怖に怯えながら死んでしまうのだろう。
今から凡そ、三年前。
この呪い箱に関わったすべての家で置き始めた、突然死―――。
四百年もの歴史の中で捧げられた命は百人を超えている。
箱を生み出した時点で生贄など止めておけば良いものを、闇の主の欲は強すぎた。求められるがままに与え続けなければならなかった。
他人の利益のために生み出された繁栄の呪い箱。
その見張り役を命じられ、ずっと背負い続けてきた波戸崎家の者たち。
終わりの見えない悪夢の中で、悪いとわかっていながら自らの死に怯え、長きに渡って生贄を出し差し出してきた闇の歴史―――。
とんでもない業を背負わされたものだ、と龍は己の宿命を呪っていた。
正直言えば他家の者たちが漏れ出した呪いで一人ずつ死んでいくことなど、どうでもいいことで、自分が同じように死ぬこともとっくに諦めていた。
生まれる前から兄四人の命を容赦なく奪われ、気狂いになった母とそれを支える父の憔悴を見守りながら、殆ど自力で大きくなったと自負している龍にとって、この薄い氷の上を歩くという人生は馴染み過ぎている。違和感など欠片もない。
どうせ人はいつかは必ず死ぬ運命にある。どんな死に方にせよ、死は死でしかない。それが、龍の考え方だった。
けれど、夏鈴が先程見せた勇敢さに言いしれない衝撃を覚えていた。事情などろくにわからぬまま、呪いの刀を躊躇いもせず手に取って、大勢の犠牲者達の嘆き悲しみと向き合っている姿を見たら、そんな薄情者で鈍感な自分をすぐに消し去りたいと思った。自分を恥ずかしいなど、生まれて初めて感じた。
同時に。
憧れ、恋焦がれてきた女性が目の前で苦しんでいる姿は、想像を絶する辛い気分を連れてきた。できるならその少しでも引き受けて、生きるも死ぬも運命を共にしたい。龍は今、本気でそう思っている。
だから、夏鈴の夫の存在が忌々しい。
取って変わりたいと思うほど、羨ましい。
猛烈な嫉妬と、制御不能な激しい怒りを覚えてしまう。
「龍様。どうなさいますか?」
薄暗い森を窓から眺めながら、どうすればいいのか考えた。
刀は今夏鈴と一心同体になろうとしている。
―――夏鈴の体に刀を括り付ければ、連れ出すことは可能じゃないか?
安易な発想だったが試さない手はない。
龍は従事者に命令を下した。
「おじい様を連れて行って下さい。そこでぼくが正式に波戸崎家の当主になったことを、皆さんにお伝えしなくてはいけませんから」
「……千歳様は心臓も弱っておいでですよ。あまり長くはないのに、無理をさせることはないのでは?」
従事者はかつて心臓外科の助手をしたこともある看護師だった女性だ。祖父の人柄に惚れて、三十年もずっと尽くしてくれている素晴らしい女性だった。彼女はおそらく、祖父を愛している。そうでなければ、できることではないと龍は感じていた。
「あなたはおじい様がもしも亡くなったら、行く当てはあるんですか?」
「……今はまだなにも考えていません。まだ、千歳様はご存命ですから」
自分の妻にも先立たれ、子供も孫も死んで、それでも彼にはこうして健気に看取ってくれようとしている人がいる。龍は、祖父のことも羨ましいと思っていた。
なぜ、自分だけ献身的に支え愛してくれる女性が現れないのか。夏鈴を初めて見た時、偶然とはいえすぐに運命を感じた。それ故に龍は、他のどの女性も心の中に入り込まないように閉ざしてきた。
どうしたって手に入らない女性を欲している自分。
死ぬことを恐れるよりもはるかに強い、この渇望。
―――夏鈴を自分に向かせるためにはどうすればいい?
龍は従事者ともう目も合わせずに、手で「行け」とサインを出して歩き出した。
今歩いてきた道を戻り、一人戦う夏鈴を連れ出すために。
夏鈴が言うように、夫との絆が本物だというのなら試さない手はない。
その結果次第で、諦めることもできるかもしれない。
龍は利き手でハートを鷲掴みしたくなり、自らの胸を押さえつけた。
夏鈴を諦める、と思っただけでこんなにも胸が痛むのだ。
「呪いなんかより、夏鈴さんに嫌われたら死ぬ気がする……」
廊下を大股で急ぎながら、龍はそんなことを思った。
戻ると夏鈴は起き上がり座っていた。
様子がおかしい。
無表情で虚空を見つめるような力のない目をしている。
顔色が青白く、ぶつぶつと何か言っているようだが聞き取ることは無理そうだ。
一定の音程のみで何かを唱えているような声は不気味だった。
この時点で龍は、後悔を覚えていた。
救世主となるはずの夏鈴がこの呪いの力に負け、永遠に自分の元に帰らなくなるかもしれないと本気で心配になったからだ。初めて触れた時の夏鈴の気の強さは実に頼もしいと思えた。白鷺が連れてきた娘の恵鈴なんかよりもずっとまろやかでいて濃度の高い気質。
期待外れならどうしようか、と考えていたがその心配もすぐに吹っ飛んだ。




