秘伝の能力の秘密 11
目を覚ました私の前にはもう燿平さんの姿は消えていた。
アートギャラリーと応接セットと、芳しい紅茶の香が立ち上っているポッドに蓋をする龍が悩ましい目つきで私を見つめていた。
「……夢を見てたのかしら」
「……夢じゃないと、知ってるでしょう? まさかこの絵の作者とそんな親密な関係だったなんて、意外ですよ」
龍はテーブルの真ん中に置かれている立派な砂時計を引っ繰り返した。
「あなたが自分の夫と親密だった彼とキスするなんて……」
「人妻とわかってて自分の母親ぐらい年上の私にレイプしたあなたに言われてもね」
刺々しい言葉も態度も改められそうにない。私はため息を吐いた。
「全然、感じてないみたいでしたよね。抱き損でした」
そんなことを言える神経が信じられず、閉口する。
でも、燿平さんのおかげで私は大分消耗していた気力を取り戻している。晴馬を愛し恋焦がれていた彼の純粋な気持ちが、私自身を呼び起こしてくれたみたいで嬉しくて、つい口元がほころんでしまう。
「なんでそこで笑っていられるのか、不気味なんですけど」
「本当の愛を知らないあなたにはわからないわ。この感覚は」
龍は持ち上げたカップをテーブルの上に落とした。
ガチャガチャと派手が音が響いて、まだ紅茶を入れていなかったおかげで火傷や免れたけれど、破片で手を切ってしまったみたい。しょうがなく私はその手を取って、血を舐めた。
龍が顔を赤くして私を見つめている。
「あなた、恋をしたことはないの?」
私の質問が意外だったのか、眉間にこの上ないほどの深い皺を寄せた。
黙り込んでいるところを見ると、この子は二十七歳にもなってまだ知らないのだ。
身を焦がす程の恋を―――。
「今まで、どんな風に生きてきたの? 魂が喜ぶような楽しいことや、人との出会いをしなかったの?」
どうしても不思議で、質問せずにはいられない。私と同じ血を持っているというのなら、苦の中にある楽にだって気付けるはず。楽の中にある苦もまた、同じように。
相反する二つの側面は互いにその意味や味わいを与えてくれるものだ。そのことを知っている筈だと期待してしまうのは、先ほどの地下室で感じた同じ祖先を持つ家族だという確信のせいかもしれない。
龍は思い詰めたような瞳を向けて、苦々しい笑顔を作った。
「僕の人生なんて、ずっと孤独しかない」
嘆きには怒りや苦悩が混じっていて、声を聞いているだけで胸が締め付けられる気がした。
「魂が喜んだのは、唯一。あなたを初めて見たときだけだ。
あなたは愛する夫の腕にしがみついて、まるで少女のように屈託なく笑っていた。
あなたの周りにいる人はみんな、あなたと同じような柔らかな光に包まれていて、羨ましかった。
僕の周りには、そんな人は一人もいなかったから。
母は依存症、父は自尊感情が低い卑屈なナルシスト、兄弟はみんな病死してて、ぼくは自分の面倒を見て育ったんだ。
僕の孤独なんて、どうせあなたにはわからないでしょ?」
龍は私の手を振りほどくと、今度は自分で血を舐めた。恨めしそうな眼差しを私に向けながら……。
野々花さんの言うとおりだった。
龍は確かに、私と生い立ちが似ている。
愛の漂流者だ。
自分が何のために生まれてきたのかを、すっかり見失っているのだろう。
巡り会う愛に辿り着けないのは、自らを愛の化身だと感じてないから―――
「知ってるわ」
私の言葉に、龍はハッとしたように驚いた。
「私もたったひとつの愛に出会うまでは孤独で、どうしようもなく寂しくて惨めな気持ちで生きてたのよ。母一人、娘一人の母子家庭で、私の母も自分の親に甘えることができない不器用な人だったから、私も自然と見習っていたのね。親に甘えるなんて発想自体が思いつかなかったな……」
小さい頃の記憶を手繰り寄せると、あの頃感じてた閉ざされた感覚が蘇ってくる気がした。
私はここにいるのに、この世界で同じ時に生まれて生きている誰一人とも繋がっていないという、どうしようもない寂しさ。
真空パックされたようにピタッと張り付くような薄い膜に覆われて、私は誰かと触れ合うことも知らないで生きていた。
思えば、晴馬に出会うまでの私はあらゆるものに期待せず、心動かされることもなく、平坦な日常を茫然と眺め、泥んこ遊びをする時も汚れることを嫌い、同年の子供たちを見下ろしては笑うことも泣くこともできない魂の抜けた人形のような子供だった。
―――どうして私はここにいるのだろう?
あの頃はよく、そんな疑問を感じては空を見上げていた。
見えない世界の終わりを観に行きたいと思ってもすぐに打ち消してしまう。それが不可能だと知っていたから。
いつか死んでしまうのに生まれて、いつか終わっていくことをも忘れて目の前の玩具に夢中になって遊ぶ子供達の中に居る違和感の中にいた私は、始りと終わりの継ぎ目に心を縛り付けられて身動きが取れずにいた。
解けない結び目を、小さな爪で必死になって解きほぐそうとするようにずっと、手に負えない問題と向き合って絶望して、絶望して、絶望して……。
―――全然、子供らしくない子だったな。
「限られた時間が動き始めていることにすっかり怯えて、私は息をすることも本当に怖かった。死ぬ恐怖を味わうぐらいなら、生まれて来なければ良かったとさえ思っていたわ。考えてみれば、本当に不思議な子よね。でも、それが私なの」
「魂の抜け殻みたいだった私が本当の死を意識した時―――。
大雪の夜、誰もいない空き地で凍えそうな私は、ようやく産声を上げたみたいに泣いて。その声を聞いて駆け付けてくれたのが、晴馬だった。
あの日、晴馬が私を見つけてくれなかったら、本当に死んでしまっていたかもしれない。
触れ合う喜びも知らず、愛することも愛されることもなく、不毛な生涯を閉じていた。
そう思うと、そう想像してみるだけで、もう。
どうしようもない程に体の奥が、芯が、苦しくて、痛くて、怖くて、悲しくて……。
出会うために生まれた。
私は晴馬と出会うために、生まれたんだ。
そう思う。
心から、そう思うの。
いつかあなたにも、そんな人が現れたらいいわね」
私の話を聞いていた龍は、小さな子供のような顔で泣いていた。
「どうして、僕じゃないの? 僕じゃ駄目なの?」
私はつい笑ってしまっていた。
こればっかりはどうすることもできないから。
「あなたじゃ駄目。晴馬じゃなくちゃ駄目なの。私には彼以外の誰かは、居ないのと同じなの」
龍は聞き分けの悪い子供のように、首を横に振っていやいやした。
「……どうして僕には誰も来てくれなんだよ? 僕のこの苦しさ、辛さ、わかるならどうしてあなたはそんなツレないこと言うの?
わかってくれるんでしょ? 僕の孤独をわかるんでしょ?
わかるって言ったなら、責任取ってよ!!」
地団駄を踏んで、悪態をついて、泣きわめいて。そうやって全部、吐き出してしまえば良い。
龍に足りないのはきっと、どんな感情をも受け止め共感してくれる誰かの存在だったに違いない……。




