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眠れぬ龍の夢  作者: 森 彗子
第2章
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手繰り寄せられて 12

「彼の絵を所有していたのは、当時彼のスポンサーをしていた大手下着メーカーの女社長だったんです。彼女は田丸燿平をペットの猫を可愛がるようにして、自分の自宅に住まわせていた。その住宅地の一角に、彼らがいかがわしいクラブを経営していたのを聞いたことありませんか?」


 次々に個人的な話が飛び出すのを聞かされて、気分が悪い。


 「もうやめて。それ以上聞きたくないわ」と遮っても彼は笑顔で「ここからが面白いのに?」と意地悪く言うのだ。止めるつもりはない、そんな目を向けて微笑んでいる。


「彼、あんまりセクシーだから一部のマニアが盗撮アダルトビデオを所有して楽しんでいたんですよ。女性からも男性からも大人気のセクシーアイドルだったんです。ふふっ」


 ―――そんなこと……。


 酷く気分が悪くなってしまう。


「一度きりしかそのホテルを利用しなかったみたいで、作品は一本。幻の一品として重宝がられていました。世の中には人の心を掴んでしまう優れた容姿と、それに見合うだけの魅力が備わった人間て早々いませんからね。


 夏鈴さんはかなり面食いだったんですね?」


 言い返す言葉もわからずに、私は俯いた。


 精神的なダメージが相当あることは間違いなかった。


 この龍という子は、悪質だ。


「恐い顔も素敵ですね。益々あなたが好きになりそうです」


 私は露骨にため息をついて、立ち上がって龍を見下ろした。


「人の不幸を面白がるなんて、最低な人がやることよ?」


 見上げながら背もたれに背中を預け、さらにニヤニヤと笑った龍が瞳を輝かせた。


「あなたに罵倒されるのは気持ちが良いです。もっと怒って下さい、夏鈴さん」


 ―――ゾクゾクっと、背筋に悪寒が走った。


「………」


 なにから言い返せば良いのかわからなくなっている。


 怒りで我を忘れてしまえば、この男の思う壺だ。落ち着かなくちゃいけない。


 紅茶を別の器に入れて、空いたソーサーに直接ケトルのお湯を注いでからそれを飲むことにした。同じ食器から出たお湯ならば安全と思ったのもつかの間―――。


 後味の中に痺れるものを感じて、すぐにそれをテーブルの上に、落とした。



「あなたはお転婆過ぎるので、少し大人しくしてて下さい。僕はこれから来るゲストと大事な話がありますので、二時間ほど寝ていて下さい。夏鈴さん」


 運ばれた部屋は薄暗く、正方形の大きなベッドに横たえられた私は朦朧としていた。注意していたのに、まんまと薬を盛られていたなんて…。


 強制的に閉じようとする瞼を必死で持ち上げても、指先一本でさえも自由には動いてくれない。何なの、これは…。


 出ていく後姿がすっかり滲んで、部屋のドアが勢いよく閉まる音のすぐ後に鍵をかける音が二度響き渡った。


 やっと居なくなった。


 でも、ここはあの憎き龍の寝室で、彼の匂いがそこら中から私を包もうとする。


 抵抗も虚しく、私は目を閉じて闇の中へと落ちて行った。



* * * * *



 まだ日陰や木の根元には残雪が残る山の中で、途中靴が沈むぐらいのぬかるみに足を取られながらも前進していくと、まだ芽吹く前の梢の向こうに白い建物が見えてきた。


「っは、夏鈴!」


 あそこに夏鈴がいる。


 それだけはやけにはっきりと確信できる。


 歩きにくい斜面を上がり、あちこちに泥がついている。


 明け方最も気温が下がる時間帯で、息も白い。


 大分空が明るいけれど、森の中は薄暗かった。


 息を切らし、汗ばんだ体を覚まそうと上着を脱いで肩にかけて歩いていくと、急に木が生えてない小さな丸い広場に出た。落ち葉こそ敷き詰められているが、中央に円形の艶のある石が置かれている。何かのモニュメントらしい。


 しゃがんで葉を払いのけると、アルファベットで何行もの名前らしきものが彫られていた。そして、縁を縫うように泳ぐ二頭の龍がいる。これはきっと教団施設があった名残なのだろう。今はもう忘れられているような荒れ具合だ。


 俺にとって宗教は必要ないもののひとつだ。自分にルールがない奴が頼りにするものであり、俺みたいな妙なこだわりが強い男には無用の長物でしかない。


「一体、どんな連中なんだ?」


 乱れた呼吸を整えがら、再び立ち上がって歩き出そうとしたとき。


 突然、前方に人影が現れた。


 細身の男が黒いコートを着て歩いてくる。


 道なき道ではない、このモニュメントに辿り着くための踏み固められた道を悠々と歩いてくる男の顔がようやく見えた時。さっきのふざけた電話の男の声を思い出して、ムカムカした。


「速かったですね」と、思った通りの声がして俺は憮然と向き合った。


 その距離は五メートル程。


「夏鈴に手を出してないだろうな?」


 男は首を傾げて、ははっと少しだけ高い声で笑った。耳障りな声だ。


「おひとりですか? 息子さんもいらしてくれたら良いのに」


「夏鈴は?!」


 俺は怒鳴った。


 質問を平気で無視するような軽いノリの男は、「そんな時間なんかないってば」と小さな声でぶつぶつとつぶやいた。


「連れて帰りたい。妻に合わせろ」


「お断りします」


 男は間髪入れずに返答した。毅然とした声だった。


「僕は波戸崎家当主です。彼女は本家にとって今じゃ必要な存在になりました。離縁までしろとは言いませんが、大事な用が済むまではこちらで身元を引き受けさせてもらいます」


「どんな用だ?」


「それは関係者以外に口外できないものです」


「夏鈴は俺の妻だぞ!関係者だろうが!」


 頭にきて、そう怒鳴っていた。夏鈴の親族だろうと、波戸崎家当主だろうと、怪しい教団の幹部だろうと、関係ない。


 娘を誘拐され、妻まで拉致られて、舐められてたまるか!


「いえ、あなたは部外者です。


 あなたをここに呼んだのは、夏鈴さんが間違いなくここにいるという誠心誠意を示すためです。今日から一か月後に北海道のご自宅までこの僕がお送りしてあげますから、今日は大人しく帰ってくれませんか?」

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