手繰り寄せられて 5
白鷺は運転席に滑り込んで、手袋を嵌めた手でハンドルを握り、アクセルを踏んだ。バックミラー越しに視線が交わると、その能面のような淡白な顔付きは益々冷酷さを帯びていく。押し込められた怒りの感情を、瞳の奥に感じる。
なぜ、この人は私に怒りを感じているのか。
私のせいで何か理不尽なことでも突き付けられているのかもしれない。
バックして何度も細かくハンドルを切り返しながら、車は坂道を下り始めた。そして、間もなく森の中に分け入るような脇道に入り、しばらく進むと立派な西洋風の門が現れた。至る所に苔が生えていて、年季が入っていることを物語っている。
道は舗装されていない山道に車の往来が頻繁なせいで草ひとつ生えていない。踏みしめられて艶々とした粘土質の路面が轍のいたるところに顔を出していて、その車幅から高級車が往来していることが想像できる。
門の扉は鉄製なのに錆びていないせいで、年季が入っている枠と割と新しい素材感という異質なコンビネーションが、真央さんのギャラリーBLUESTARを連想させた。
門から二キロ程走ったところで急に森が開けた。白い砂利が敷き詰められた駐車スペースの先には三角形のピラミッドのような白亜の建物が聳え立っている。
「これは?」と尋ねると、「入り口です」とまた意地悪な返答をされた。
この人は私と話したくないのだろう。
触れたら心を見透かされると気付いたのか、ドアを開けた白鷺は一定の距離を開けて私が降りるのを待っていた。
「何の要件か、今聞かせて下さい」
「……私は使いの者でして、要件なら主人に直接聞いて下さい」
ため息を吐いて、シートからおしりを浮かせて車の外に片足を置いた。その瞬間、手錠を外されている恵鈴のビジョンがちらりと脳裏をかすめていった。
「なぜ、どうやって恵鈴を東京駅で連れ去ったの? それは答えられるでしょ?」
怒りが抑えきれず、私は白鷺の顔を睨みつけながら車から降り切らずに居座った。
ドアを掴んだままじっと私を見下ろす彼の眉間には深い皺が刻まれている。そして、目の下がぴくぴくと痙攣していた。苛立っていることが一目でわかってしまう。
「…説明している時間がない……。主人は遅刻を嫌うのです。すいませんが歩きながら話させて頂きたい」
「いやです。ここですぐに話してくれるまで、動きません」
「……っち」
露骨に舌打ちをした白鷺は、白髪交じりの髪を掻き上げた。
「……気絶させて、そのまま新幹線の前方車両に連れ込みました」
「どうやって気絶させたの?」
「薬を打って」と、言い淀む白鷺の額から汗雫と血管が浮かんでいた。
「薬? どんな?」
聞き捨てならなくて、私は立ち上がってほぼ身長が同じの彼のスーツの襟を両手で掴んだ。能面顔に恐怖が浮かび上がる。女の私相手に彼は本気で怯えているのが伝わってきた。
「…主人が与えてくれたもので、中身の詳細は知りません。でも、彼女は無事に目覚めているし、特に問題は……」
殴られるのを怯え身構える子供のように、彼は目を固く閉じて言い訳をしていた。私は両手を離して、一歩後ずさった。気分がとても悪くなった気がして…。
腕も足も繋がれて自由を奪われ、暗闇の中で得体のしれない凶器が肌に打ち付けられる瞬間の、ビュンという空を切り裂く音が耳元で聞こえた気がしてゾッとする。
玉の汗を滴らせながら、高ぶった感情を沈めようと深呼吸を始めている白鷺から、子供の悲鳴のような身の毛もよだつ折り重なった高い音が聞こえた。空を切り裂くような音が何度も耳元で聞こえて、私は虫を避けるように手で振り払った。
付きまとう不快感に、両耳を塞いでしゃがみこんだ。
―――夏鈴、かりん、ほら上を見て。あなたの真上に星が見えるわ。
みすずちゃんの声がして、不安がすぐに消えていく。
野々花さんと初めて出会った時、理由あって「みすず」と名乗った彼女は、ずっと私のそばにいる。お母さんの美鈴という名前をわざわざ名乗ったのは、母親としての愛情を持って接しているという意味だったのだと、私は子供を産んでから気付いた。
―――自分を見失いそうな時は、空を見て。あなたを見ている人がいるから。
深夜に差し掛かった信州の山奥から見上げた夜空は、北海道よりも天の川がはっきりと見えた。春の星空を見上げながら、いつもすぐに見つけられる北極星を探し出そうとするけれど、時間が早すぎるのかまだ北斗七星が一部しか見えない。
それでも十分だった。宇宙のゆりかごの中にいる私は、誰からも切り離されることはない。
愛で繋がっている家族を感じると、目の前にある脅威や不安はもう怖くはない。
「あなたは可哀想な人…。傷だらけにされて、痛みと恐怖で繋がれているのね?」
私の言葉に慟哭したように叫び出した白鷺は、膝を折って地面に平伏した。そして、獣のように吠えると、しばらく背中を痙攣されて動かなくなってしまった。
戸惑いながら、ただ見守っていると。
じゃり、という足音に気付いて振り向いた。
そこには若く背の高い男の子が立っていた。
瞳が揺れている。
* * * * *
滑走路に降りた瞬間に目が覚めた。
飛行機が無事に羽田空港に到着したようだ。ビジネスマンや外国人のバックパッカーが勢いよく降りていく。携帯端末をまず機内モード設定を解除した途端に、メールが入ってきた。
シートでベルトを外したところで、メールを読んだ。
夏鈴が恵鈴の居場所を見つけ、燿馬に運転を教えたこと、二人を確保してくれという短い命令文……。
「なにやってんだよ、あいつ……」




