コレクター 16
「恵鈴が」と、お袋の悲痛な声でまた引き戻された。
両手で顔を覆い隠しながら、お袋は震えていた。
「早く恵鈴を取り戻さないと、大変なことになるわ」
「大変なこと?」
「コレクターは自分の欲しいイメージを恵鈴に押し付けて、無理矢理絵を描かせる。恵鈴の心が壊れるリスクがかなり高いわ。
私が知っている田丸燿平というアーティストは、恵鈴以上に繊細で同時に大胆な一面を持っていた。彼らが絵を描く原動力は本人が描きたいからというより、何か別の意思や力に突き動かされている側面があるの。そんな人に命令や注文を付けたところで、望んだ作品が生まれてこない。
赤ちゃんと同じで、生まれた子をありのまま愛することが出来なければ、作家は心を壊す……。そんな気がするの」
俺の体も勝手に震え出した。
早く、すぐにでもこの腕に恵鈴を抱き締めたい。でなければ、何かが手遅れになる気がする。
「考え込むと辛くなるわ。今は少しでも恵鈴に近付いて、迎えに行かなくちゃ!」
お袋から発破をかけられて、俺は嫌な感覚をふるい落とした。
「あのさ、なんか気持ち悪いんだけど、相手はたまたまお袋の家系の関係者かもって話と、田丸燿平のコレクターかもって話が重なってんの?
こんな偶然あるかよ?
あまりにも偶然の一致が出来すぎてる気がするんだけど……」
最大の疑問点を質問に変えた途端、俺の胸やけは少しだけマシになった。
「ようちゃん。私は偶然じゃないと思ってる。変な話に聞こえるかもしれないけど、こうなることは決められていたのよ、かなり前から」
「そんな…。信じられない! 決められてたなら、わかってたなら、どうして防げなかったんだよ?!」
お袋に文句言ってもしょうがないけど、俺は……。
「ええ。あなたは信じない方が良い。むしろ、その方が燿馬らしく暴れられるわ。
宿命は変えられないものじゃない。概念は心を縛り付けて呪いになるけど、信じなければ効果はないの。 肝心なのは、宿命の重力に押さえ付けられることから自由になること。それしかないんじゃないかな?」
お袋は冷たくなった手で、俺の手に重ねながら微笑んだ。
「私はね。波戸崎の因縁の終着駅になる覚悟は出来てるの。恵鈴にもあなたにも血の一滴も流させたくない。私が終わらせる。必ず!」
因縁? それはどんな罪や業なんだ?
親父の顔がちらついて、また胸やけが蘇ってくる。お袋一人に全て任せて良いもんじゃないことぐるいわかってるから、余計に歯がゆくてイライラしていた。
「頼むから、一人で何とかしようって考えるのだけはやめてくれよ? こんな時こそ、助け合おうよ! 俺達は家族だ。お袋一人に任せるなんて薄情者はうちにはいない。そうだろ?」
お袋の瞳に溢れ出した涙を見つめながら、俺は得体の知れない敵に心底ムカついて、今にも殴り掛かりたい衝動と戦っていた。
* * * * *
左右両側にあるつまみを指で押しながら、窓を持ち上げてみると、やっと外気に触れられた。
パタパタと足音が駆け寄ってくる気配を感じながら、窓を開けきると上半身から抜け出して、屋根の上にでた。いつの間に二階に上がったのか、地上までの距離に足がすくむ。
「いたわ!」
女の声がしたと同時に、滑り台を滑り落ちるように私は廊下の窓から離れた。連れ戻されたら、最期。そんな不吉な予感に背中を焼かれる。
三角形の屋根の上を転がるように落ちていく。
途中あるでっぱりに背中を引っ掛かれて、思わず悲鳴を上げそうになりながらも、咳をするように抑えた。そして、三メートルほど放射線を描きながら落ちた先には垣根があって、身体中に細かな傷はできたけど運良く衝撃は最小限で済んだ。痛みを感じながらも、地面に足を下ろしてすぐに歩き出す。ボヤボヤできない。
この辺りの森は手入れが行き届き過ぎて、隠れられるような藪も十分な幹の太さがある樹も限られている。吸い寄せられるように向かおうとして躊躇した。そっちはダメだと言われた気がして、一瞬立ち止まった。
風が道案内を始めた。
生温い風に吹かれて、右へと走り出す。フェンスが見えてきて、躊躇いなく登りはじめた。三メートルはありそうな高さをよじ登り、乗り越えた時に下を見て一瞬目眩がした。
手が痛くても離す訳にはいかない。
「大丈夫。落ち着け、私」
白い建物を見ながらフェンスを降りていくと、人の声が聞こえてきて、私は地面に着地した途端に伏せた。
フェンスを越えた途端に野生の森になっていて、ゆっくりと真後ろに下がりながら、森の中に身を隠す。
夜の森は完全なカモフラージュになる。でも、地理勘のない私にはハイリスクだ。毒蛇のマムシや、虫が苦手な私にはかなり恐ろしい環境だけど、あれ以上あそこに居たくなかった。
白鷺という男の内なる怒りが、恐ろしかった。
北海道の山とは違う森は傾斜がきつくて針葉樹が多く、掴む場所があまりないからかとても歩きずらい。混乱しつつも混乱するわけにはいかない。泣きながら、でも冷静に足場を確かめながら道ならざる道を歩くと、何度も木の枝に引っかかって傷だらけになった。
離れなくちゃ。
ここから逃げなくちゃ。
「ママ……、燿馬……、パパ……」
次々に皆の顔を思い浮かべて、また必ず会うための一歩ずつを噛み締めながら前に進んだ。
「私を守って下さい……。みっちゃん! お爺ちゃん!」
亡くなっても尚、二人の突然の死がまるで昨日のことのように感じる。もう一年半前のことなのに、二人の顔がはっきりと見えた。
「恵鈴、こっちよ」
「足元に気を付けなさい。そんな靴でもないよりはましだから」
言われて私は靴のことを考えた。
そうだ、ローヒールだけど去年、燿馬がプレゼントしてくれた靴を履いていたんだ。
「みっちゃん!お爺ちゃん!?」
疲れてるせいで幻覚でも見てるのかな?
いつの間にか、私の両脇に二人が歩いていた。
「お前には苦労をかけてすまないな。恵鈴」
ごつごつした手が私の頭を撫で下ろす。この感じ、凄く懐かしい。
「感動の再会に浸る時間は許されてないわ。悪いけど、歩き続けましょう。 夏鈴と燿馬が近くまで来るから、案内するわ」
みっちゃん、こと私の祖母の美鈴さんは変わらない笑顔を私に向けながら言った。温かい手が背中に触れて、力が沸いてくる。
「迎えに来てくれるの?」
ママと燿馬が?
―――嘘みたい、でも本当のことだとわかる。
ママは昔から、私達のピンチにはどこにいても追い付いてきた。迎えに来てくれた。今回もきっと、ママになら不可能じゃない。
私の体がまるで発光してるみたいで、足を出す場所がちゃんと見える。ピーターパンに出てくる妖精みたいに、私自身が光っている。
「お爺ちゃん! 私、見つかっちゃう?」
「大丈夫だよ。誰からもその光は見えないから」
「夏鈴にだけは視えるけどね。好都合よ」
お爺ちゃんとみっちゃんはかわるがわる不思議なことを言った。
「みっちゃん達が何かしたの?」
二人とも笑って首を振った。
「そんな不思議な力は残念ながら出せないわ。その光はあなた自身の力よ、恵鈴」
「私の力?」
「恵鈴の絵にも光が滲み出ているのよ。だから、皆あなたの絵に惹き付けられてしまう。観るだけで他人の心を明るくするなんて、素晴らしい才能よ」
みっちゃんは艶やかな白い肌で、生前最後に見た時より若々しくて綺麗で、澄んだ声も私を勇気づけてくれる。
いま、私は独りじゃない!
「早く夏鈴に見つけてもらいましょう。がんばれ! 恵鈴!」
「うん! 頑張る!」
涙で濡れた頬をカーディガンの袖で拭きながら、山道を進んだ。
燿馬やパパのことも思い浮かべた。こんな時は、友達より家族のことばかり考えている。特に燿馬のことを思うだけで、力が沸いてくる。
早く燿馬の腕に抱かれて、何もかも忘れて眠りたい。それまでは、何があっても立ち止まらない。自分にそう言い聞かせながら、頼もしい二人の霊に導かれて私は山道を突き進んだ。




