第98話 すれ違う手
「待ってよ、フェン!」
後ろから呼び止められる声が聞こえたが、フェンにはそれが届かなかった。
耳元で風が唸り、心臓の鼓動が激しく脈打つ音だけが響いている。
「待ってってば!」
エリナの声は必死だった。
それでも、フェンの足は止まらない。
腹の底は煮えたぎり、内側から湧き上がる悪感情が止まらない。
まるで黒い泥が心の底から溢れ出すかのように、負の感情が全身を埋め尽くしていく。
あの女に騙されていた。
全てはあの女の手のひらの上だった。
フェンは踊らされていただけ。
操り人形のように、見えない糸で引っ張られ続けていた。
憎い。
自分を騙したあの女も、自分の邪魔をする何もかも。
だが何より————
馬鹿みたいに乗せられていた自分自身が、一番憎い。
「くそおおっ!」
フェンは怒りを爆発させ、道端の木を力任せに殴りつけた。
堅い樹皮が拳を拒絶するように硬いが、それでも止められない。
何度も何度も殴りつける。
その一撃一撃に、自分への呪詛を込めるように。
木の破片で拳が血だらけになっても気にしなかった。
痛みすら、この怒りの前では微かな痺れでしかない。
「やめて!」
エリナがフェンの腕にしがみつき、暴走を止めようとする。
その華奢な体で、必死に。
フェンはそれすらも、力づくで振り払った。
「きゃあっ!」
エリナの悲鳴が響いた。
その声は、静寂を引き裂くように鋭く響き渡る。
その声で、フェンは我に返った。
目の前のエリナの目には、涙が浮かんでいた。
「ごめん……」
自然と謝罪の言葉が口をついた。
怒りに盲目になってしまっていた……
こんなに怒りに身を任せていても、何の意味もないのに。
フェンが息を整え、激情を抑え込もうとすると、エリナは涙を拭いながら笑ってみせた。
その笑顔には、悲しみと優しさが混ざり合っていた。
「いいよ……フェンがこんなに荒れてるのも、きっと魔法煙草のせいなんでしょ?」
エリナの言葉にフェンはハッとする。
あの女が言っていた、魔法煙草の副作用————
こんなにも苛つきが止まらないのは、煙草の毒が脳をおかしくしているからなのか?
ショーイのあの荒れ様も、もしかしたら————
そして、この苛つきも魔法煙草を吸えば抑えられるということが、本能的に分かるのだ。
身体の奥底から湧き上がる渇望が、その事実を雄弁に物語っていた。
そうやってどんどん量が増えていき、気づけば、体は侵食されボロボロになっていく。
まさに、悪魔のような魔道具だ。
「ねえ、もうやめよう?」
エリナの瞳に涙が溢れ、その声は切なく響いた。
震える唇から紡ぎ出される言葉には、友としてフェンを思う痛切な想いが滲んでいた。
「これを続けてたら、ショーイみたいに体を侵されて、死んじゃうんだよ?」
「……金はどうするんだ。どうせ僕達には金が必要だろう」
「お金を集める方法は、『ロード・オブ・ウィザード』にならなくても、他にもあるじゃない! 私も手伝うよ————バイトして、前みたいにカツアゲもしよう。それで、きっとすぐ集まるよ」
今だったら、まだ間に合うかもしれない。
吸いたいという欲望に抗うのは、つらいかもしれないけど————
エリナの声は震えながらも、フェンを止めようとする決意に満ちていた。
「……ショーイのことは見捨てるのか?」
ショーイは満身創痍で時間がない。
悠長に小遣いを稼いでいるだけでは間に合わない。
フェンの問いに、エリナは必死で答える。
「————学校に魔法煙草のことを打ち明けよう! 魔法煙草を使って学校を乗っ取ろうとしている人がいるって。そうすれば、学校側も動いてくれて、ショーイを助けられるかもしれない!」
エリナの提案は現実的で、真っ当だった。
全てを投げ出して、魔法煙草という誘惑から解放され、穏やかな日常に戻る————
魔法煙草という呪いから脱却するには、それがきっと最善の方法なのだろう。
ショーイは親友だ、助けたい。
エリナも友達として大事に思っている、だから、願いを聞いてあげたい。
でも————
フェンには、どうしても譲れないものがあった。
「皆で協力すればきっとうまくいくよ! だから————」
森に差し込む太陽の光が、エリナの差し伸べた手を優しく照らしていた。
しかし、フェンはその温かな光も、友の心からの言葉も全て無視するかのように、重い足取りで立ち上がる。
そして、フェンの手には、魔法煙草が握られていた。
火をつけ、吸い込む。
煙草の先端が妖しく輝きを増した。
「そんな……!」
魔法の煙が肺の中に広がるたびに、フェンの心を蝕んでいた焦燥、苛立ち、怒り、そして様々な激情が、漣の様に消えていくのを感じた。
まるで氷の結晶が心を覆っていくかのように、感情が凍りついていく。
フェンは冷徹な声で、静かに言葉を紡いだ。
「————ごめんな。それでも僕は、進み続けなきゃならないんだ」
カナを救う。
それだけは、『ロード・オブ・ウィザード』にならなきゃ叶えられない。
「何を犠牲にしても、それだけは成し遂げなければならないんだ」
エリナは悲痛な表情で叫ぶ。
「これ以上やったら、死んじゃうかもしれないんだよ!」
「それでもいい。カナさえ幸せになれば、それでいいんだ」
その言葉を最後に、フェンは再び歩き出した。
背後では、エリナが力なく膝から崩れ落ちる音が響く。
「そんなの……つらいだけじゃないの……!」
エリナの嗚咽が、静まり返った森に木霊する。
フェンは白い煙を吐き出しながら、森の一本道を歩み続けた。
もう後ろは振り返らない。
ただ前へ、前へと進んでいく。
魔法煙草の煙が、晴れた空へと溶けていくように消えていった。
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