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第9話 灯火

「ああっ!!」


 部屋に乾いた音が響き渡った。

 殴られた衝撃で後ろに倒れたシーナは、左頬を押さえながら見上げる。


「————あなたはいつまで経っても出来損ないですね」


 ひどく冷たく、無機質な声で告げられる。


 清潔感漂う白い制服。

 手際よくまとめられた黒髪、服や靴の端、そして指先に至るまで、汚れを一切許さず、清潔であることを徹底している。

 その瞳に宿るのは氷のような冷たさだった。

 一度見入られれば、感情さえも凍りつかせてしまうかのような。


 彼女はジン。

 屋敷に解き放たれている大蜘蛛の召喚主であり、アストラ家に仕えるメイドの一切を取りまとめる婦長であった。


「賊を処理することも叶わず、好き勝手にさせるなど、アストラ家に勤める者として恥ずかしくはないのですか?」


「婦長様……」


 静まり返った部屋に、ジンの静かな声が重苦しい空気を漂わせている。

 鋭く切り裂くような彼女の言葉が、シーナの体をも冷たく硬直させた。


 しかし、訂正しなければならない。

 彼らは賊などではなく————


「————賊ではなく、彼らは賢者様なのです。婦長様、ついにこの日、賢者様がこの世界に復活したのです……!」


 シーナの言葉を聞いて、ジンは動きをぴたりと止めた。

 まるで時間が止まったかのような静寂の後、ゆっくりと歩き出し、足音が部屋の中に重く響く。


 そしてシーナの前に立つと、ジンはシーナの首を掴んで持ち上げた。


「ぐ……ぐあっ……」


 その細腕からは考えられないくらいの力で、シーナの体は空中に静止している。


 すぐに空気が喉を通らなくなった。

 指先がしっかりと首を圧迫し、その手の冷たさが強烈にシーナの体温を奪い去る。


「あれが、賢者であると……? ついに壊れましたか。あんな薄汚い賊供が、魔法と知性を司る賢者な訳ないでしょう」


 心を貫くような強い言葉で罵倒される。

 その言葉尻には、いつもよりも苛つきが含まれているように感じた。


 意識が飛びそうになったところで、ジンはシーナの首を解放する。


「ゴホッ……ゴホッ……!」


「あなたは騙されているのです。あの賊供に、そして、あなたの母親に————」


 シーナはハッとして、ジンの方に視線を向ける。

 母親を否定されることは、それだけは看過できないことだったのに。


 彼女の冷たい目を見てしまうだけで、声が出なくなってしまう。


「……私は後片付けをしてきます。あの()()()()()も考えねばなりません」


「え!? 婦長様それは————」


 息も整っていない中、シーナはジンに追い縋ろうとする。

 だが、彼女の氷のように冷ややかな雰囲気が、威圧が、シーナの行動を阻んでいた。


 ジンはシーナのことを(さげす)むような目で見た後、後ろを向いた。



「あなたは、この部屋の掃除でもしていなさい」



 そして、ジンは部屋の扉を開けて外に出て行った。

 徐々に遠くなる足音を聞きながら、シーナは表情を暗くする。


「このままでは賢者様が危険だ……!」


 ジンによって凍らされていた心が徐々に溶け、それと同時に焦燥が生まれる。


 ずっと待っていた。

 待ち焦がれて、憧れていた。

 母の遺言を信じて、あの扉が開くのを待った。


 それがついに開いた。

 私を救ってくださる人が現れたのだ。


 そんな人達を、危険に晒すわけにはいかない……!


 シーナはそう決意を固めようとしたが、ふとそこでジンの言葉が蘇る。


『あなたは騙されているのです。あの賊供に、そして、あなたの母親に————』


 騙されている。

 シーナは最初にあの扉が開いた時、同じことを思ってしまった。


 賢者の扉から救世主が現れるなんて、嘘なんじゃないかと。


 それでも、なんとか信じようとして。

 彼の言葉から自分が賢者だと言ってくれた時は、その言葉に(すが)ろうとした。


 アイスと呼ばれたあの人が、賢者————


 本当にそうなのか。

 あの人たちは本当に私を解放してくれるのか。


 婦長様の言う通り、彼らは偽物なのではないのか。



 ジンの黒い瞳を思い出し、自分の心がまた冷めていくのを感じた。


「賢者様なんて……本当はこの世にいないのかな……」


 そうなのかもしれない。

 いや、きっとそうだ。


 それよりも私は、この家の雑用を行い、この家を守ることがお役目。

 私にできることは少ないけれど、少しでも魔女様達のお役に立たなければ。


 婦長様の命令は絶対だ。

 婦長様の言うことを聞いていれば、何も間違いはない。


 これからもずっとあの場所で————



 シーナは胸の中で一度燃え上がったものに完全に蓋をした。


 さて、掃除をしなければ。

 また婦長様に叱られてしまう。


 立ち上がって裾をぱんぱんと叩いた後、慣れた動きで部屋から掃除道具を取り出す。



 その瞬間だった。

 手に持った箒が、よく母が使っていたものだなと思った瞬間————幼い頃、母が言ってくれた言葉を思い出していた。



『賢者様は誰よりも優れた知性と、誰よりも慈悲深い心を持っているわ。賢者様に付き添っていれば、きっとそれが分かるはず。騙されたと思って信じてみなさい』



 母はこんなにも優しかっただろうか。

 こんなにも優しい言葉を、私に投げかけてくれていたのだろうか。


 そして、思い出す。


 アイス達が魔法を使わず、その知識のみを用いてジンの蜘蛛を撃破したこと。

 お互いがお互いを信じて任せ、勇敢に戦っていたこと。


 そして、アイスの腕の温もり。

 細いながらもとても強い腕の感触。


 倒れてしまった私を抱き起こしてくれた時のことが、(おぼろ)げに蘇っていた。

 そう、先を急ぐ仲間達に反し、私を助けようとしてくれた————賢者様の姿が。



 その瞬間、冷めてしまっていた心に、再び火がついた。

 シーナは手に持っていた掃除用具を投げ捨て、廊下に飛び出す。


 何をすればいいのかも分からず。

 何ができるかも分からず。


 ただ自身の衝動に任せて走り出した。


 古びた扉や装飾された壁、見慣れた絵画、様々な景色がぼんやりとしたまま過ぎ去っていく。

 廊下の灯りが揺らめく中、シーナの走る影は薄暗さに溶け込み、時折明かりに照らされて明滅を繰り返す。


 無我夢中で考えなしに走っていると、その先の廊下の隅に何かが落ちているのを目にした。


「これは、セラフィリア様の————」


 それは、魔法の杖だった。

 世界樹の枝によって作られ、特殊な紋様が刻まれているそれは、まさに魔女のみが扱える魔法補助装置だ。


 シーナはしゃがみ込み、その細い杖を手に取る。


 セラフィリア様なら、もしかして————



 そう思うや否や、シーナはそれを持って再び走り始めた。


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― 新着の感想 ―
裏社会で生き抜くアイスやリルがかっこよく、 緊迫感ある始まり、展開がスピード感があってとっても面白いです。 自身を大賢者と称する最強の詐欺師アイスが、魔女の家の者達をどう騙すのかが見ものですね。 続…
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