譲れないもの1
梅の花が咲き誇り、甘い香りを漂わせるニ月下旬――
午前十時前、JR鎌倉駅に降り立った帆花は人の多さに圧倒された。休日で大勢の利用客が行き交う中、響也とはぐれないよう移動する。
改札を出て視線を彷徨わせると、中性的な美青年に目が留まった。甘く整った顔立ちで華やかな空気を纏っている。
昴は特別に調合された上質なフレグランスのような、はっと振り向かずにはいられない魅力の持ち主だ。
人の合間を縫って近付くと、こちらに気付いた昴が眩い笑みを浮かべた。
「おはよう帆花ちゃん。クリスマス以来だね。会えて嬉しいよ」
「おはようございます、昴さん。私もまたお会いできて嬉しいです」
二人の間にほのぼのした空気が流れる。昴は両腕を組み、画家がモチーフを眺めるように帆花を見つめた。澄んだ飴色の双眸に確かな熱が宿る。
「少し会わない間にまた綺麗になったね」
笑みを深め、流麗な仕草で帆花の手を取り甲に口づける。目撃した女性達がきゃあっと黄色い声をあげた。
成り行きを見ていた響也は痺れを切らして舌打ちし、帆花の肩を抱き寄せる。
「おい昴。お前、完全に俺の存在忘れてるだろ。わざとか? 保護者の前で口説くとはいい度胸だな」
牽制された昴は平然と笑みを返した。
「今のは純粋な称賛だよ。それより響也こそ大事なこと忘れてない? 僕は帆花ちゃんと二人でデートするはずだったんだ。それを響也の都合で変えたんだから、ちょっとくらい大目に見てくれてもいいんじゃないかな」
「それとこれとは話が別だ! 融通を利かせてくれたことには感謝してるが、帆花といちゃつく許可は与えてないぞ。節度を守って適切な距離を保て。いいな」
「相変わらず過保護だなぁ。そんなに釘を刺さなくても、帆花ちゃんが嫌がることは何もしないよ」
肩をすくめた昴は穏やかに笑っているが、眉を吊り上げる響也の顔つきは険しい。犯罪を嗅ぎ付ける警察犬のように隙がなく、目付きが鋭い。帆花はため息を吐いて頭を下げた。
「すみません、昴さん。最近響ちゃんの警護がレベルアップしてて」
「はは、みたいだね。僕はかまわないけど、お見合い相手の前では自重した方がいいんじゃないかな。目に余る重度のシスコンなんて確実に引かれるよ」
「そうですね。せめてドン引きされないよう精一杯フォローします」
「……お前ら二人ともツッコミ待ちか? ここぞとばかりに結託すんじゃねーよ!」
三人でコント(?)を繰り広げていると、改札から藤崎が出てきた。きょろきょろ周りを見回してこちらに気付き、手を振りながら駆け寄ってくる。
「おはようございます! 皆さん早いですね。お待たせしてすみません」
「いえ、まだ待ち合わせ時間前ですよ」
社交モードに切り替えた響也は涼しげな目元を細め、藤崎を輪に加えた。「先日お話した友人の朝日奈です」と紹介された昴は、半歩前に出ると爽やかな笑みで胸に手を当てる。
「はじめまして、朝日奈昴です。今日は鎌倉をご案内頂けると伺って楽しみにしていました」
礼儀正しく一礼され、藤崎は丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、突然のお誘いをご快諾いただき感謝しています。藤崎香織です。充実した時間を過ごせるようプランを練ってきたので、一緒に古都を満喫しましょう!」
「それでは出発~!」と先頭を切った藤崎は、遊園地へ向かう少女のように愛らしかった。
前回のエレガントな装いから一変し、今日はカジュアルな出で立ちだ。ざっくりしたケーブルニットにスキニーデニムを合わせ、フーデットコートを羽織っている。
光を当てると色が変わる宝石みたいに、様々な魅力を併せ持つ素敵な女性だと思う。
(響ちゃんが夢中になるのも時間の問題だよね……)
胸に引き攣るような痛みが走って苦しくなった時、するりと右手を握られ驚いた。昴を見上げると、蠱惑的な笑みで口許に人差し指を立て、甘い眼差しを向けてくる。
「人数は増えたけどデートだから、帆花ちゃんをエスコートする権利があるよね?」
疑問形でありながら選択肢を与えない強引さにドキッとした。けれど昴の触れ方はとても優しくて、導かれる心地よさに肩の力が抜けていく。
(もし藤崎さんと響ちゃんの三人で来てたらきっともっと辛かった。昴さんが一緒で良かった)
感謝を込めて笑みを返すと、守るようにきゅっと指に力を込められ心強かった。
「あの鳥居から鶴岡八幡宮までの参道は『段葛』と呼ばれていて、春には桜やつつじが満開になるんですよ。日本の桜百選にも選ばれています」
少し先を歩く藤崎の声に耳を傾けながら、土産物屋や骨董品店などが軒を連ねる古い街並みを通り抜けていく。
最初に訪れたのは鶴岡八幡宮だった。山を背に豊かな木々に囲まれた広い境内は、人で賑わっていても澄んだ空気に満たされている。
朱塗りの二重楼門が壮麗な本宮は高台に建ち、日光を浴びて鮮やかに浮かび上がって見えた。
石畳の参道を直進し境内中心部にある舞殿に近付くと、挙式中だった。笛の音色が響く中、巫女が神楽舞を披露している。
新郎新婦は晴れやかな面持ちで、その場に居合わせた観光客から温かな祝福を受けていた。
「実はね、ここで結婚式を挙げるのが子供の頃から夢なの」
身を寄せてきた藤崎にこっそり耳打ちされ、顔を見合わせた。照れ臭そうに笑う彼女は自分の想いを口にし、夢を実現できる立場にある。それが羨ましくも眩しい。
「素敵な夢ですね。何か特別な思い入れのある場所なんですか?」
「私自身特別な縁があるわけじゃないんだけど、両親がここで挙式したのよ。写真を見せてもらって以来、ずっと憧れてたわ。ふふっ、単純よね。帆花ちゃんはどう? 理想の結婚式、考えたことある?」
興味深々に訊ねられ、言葉に詰まる。長年響也を想い続けているが、結婚式など想像したこともなかった。
「私は……具体的にはまだ」
言葉を濁し、曖昧に笑い返す。普通はこういう場面に立ち会えば素直に憧れるものなのだろう。
帆花はただ、奇跡みたいだと思う。愛する人と出逢い、想いを通じ合わせ、未来を共に歩いて行けるなんて……とても自分の身に置き換えられない。
新郎新婦を見つめる帆花の横顔が微かに曇る。顔色の変化に気付いた響也は、「混んできたのでそろそろ移動しませんか?」と藤崎に声をかけた。
人混みで疲れたのだと解釈し、気遣ってくれたのだ。これ以上結婚の話題を掘り下げる気はなかったので、助け舟にホッとした。
参拝の前に手水場へ向かうと、柄杓で水を掬って手を洗い、口をすすいで身を清めた。樹齢一千年を超える御神木の脇を通り、狛犬が入り口を固める大石段を登っていく。
頂上に辿り着いて振り向くと、鎌倉の歴史ある街並みと青い水平線、伊豆大島が一望できた。パノラマ写真に収めたくなる素晴らしい風景に心が弾む。
春の気配を忍ばせる風の中、荘厳なご社殿で参拝を済ませ、鶴岡八幡宮からほど近い小町通りへ足を運んだ。
小町通りは土産物屋や飲食店がずらりと軒を連ねる有名な観光スポットで、大勢の人で賑わっていた。
可愛い色柄の手ぬぐいや和雑貨、グラスビースなどを眺め歩き、揚げたての紫芋コロッケをテイクアウトして食べる。
散策中にふらりと入った豆菓子専門店は、色とりどりの豆菓子が所狭しと陳列されていて物珍しかった。
商品は全て試食可能で、キューブ状の透明な小箱の中に落花生、大豆、そら豆などをバラエティ豊かに味付けしたものが気前よく盛られている。
胡麻やきな粉といった定番の他、フランボワーズやチェダーチーズ黒胡椒など洋風にアレンジしたものもあって面白い。
「昴さん、見て下さい。たこ焼きソースマヨネーズ味とかありますよ」
「ん、どれ? あーほんとだ。珍しいね」
下の段にある商品を確認するため、昴が膝を折る。普段は身長差のせいで見上げる位置にくる綺麗な顔がぐっと近くなってドキッとした。
慌てて一歩横にずれると、昴は悪戯を企んだような笑みを浮かべた。
帆花の肩に手を置き、「食べさせてあげようか?」と耳元で囁く。誘惑するような、色香の滴る声色だった。からかわれていると分かっていても頬が熱くなってしまう。
「……昴さんって、実はけっこう意地悪ですよね」
抗議を込めて唇を尖らせるも、「今頃気付いたの?」と開き直られゴホッとむせた。訂正、かなり意地悪だ。腹黒というより純黒である。取り繕わないのがいっそ清々しい。
(でもからかわれてばっかりじゃ悔しいから、ちょっとだけ反撃しよう)
帆花は豆菓子をひとつ手に取ると、指で摘まんで「あーん」と昴の前に差し出した。さすがに恥ずかしがって遠慮するだろうと様子を窺う。
しかし昴は動じるどころか、嬉しそうにパクッと豆菓子を口に含んでしまった。形の良い唇が指先に触れ、軽く食んで離れる。真っ赤になって硬直すると、昴はふっと口角を上げ、
「ごちそうさま。まさか帆花ちゃんが食べさせてくれるとは思わなかったよ。意外と大胆だね」
「……っ!!」
「あれ、おしまい? こんなに可愛い仕返しを受けられるなら、もっと苛めたくなっちゃうなぁ」
「~~~もうっ昴さん……!」
やり場のない羞恥心が込み上げ、昴の胸をポカポカ叩いた。完全に八つ当たりだが、昴は笑って拳を受け止めてくれる。そこへ響也が割り込んできて、左右にベリッと引き剥がされた。




