29.束の間の日常
「…ん?」
オーウェンが目を覚ますと、ベアトリスが椅子に座って眠っていた。上半身をベッドに突っ伏した状態で、左手がオーウェンの右手と繋がれている。
「えっ?」
声を出して、しまったと口元を押さえるが遅かった。その声でベアトリスを起こしてしまった。薄っすらと彼女の目が開く。
カーテンから眩しい日が射し込んでいる。どうやら朝までずっと寝ていたらしい。
ベアトリスは目を擦りながら、上半身を起こした。
「オーウェン。起きたのね。調子はどう?」
「ごめん、あれからずっと寝ちゃって。ベアトリスを椅子なんかで寝かしちゃって…」
「ああ、どうりで首が痛い訳だわ。あなたはちゃんと眠れた?」
「俺はぐっすり眠れた。ベアトリスが隣にいてくれたから」
「そう。なら良かった。じゃあ朝食を食べに行きましょう」
「えっ……いいの?」
「ええ。一人で食べるのも好きだけど、誰かと食べるのも嫌いじゃないわ」
今朝のメニューは、トマトのスープ、タンポポサラダ、たっぷり茸のオムレツ、スライスしたパンにはチーズとハムがのっている。家族はもう食べ終わっており二人だけの食事になった。
「美味しい」
やっと食べ物の味を感じられた。
「でしょう?好きなだけ食べなさい」
食べ終わる頃、ベアトリスが切り出した。
「そう言えばシャーロット様はどうしたの?」
オーウェンのカップを持つ手がピクリと震えるのを目ざとく捉えた。
「何よ?言えないの?」
「……亡くなった」
「え?」
「薬の効力が切れたことを伝えた後、部屋で薬を飲んで死んでいるのをメイドが見つけた。ごめん、てっきり知っているかと」
口元を押さえ動けなくなったベアトリスの視線から逃れるように、オーウェンは伏し目がちになる。
「俺のせいだ。きっときつく言いすぎたんだと思う」
「それは違うわ!あなたのせいではないわよ」
薬で意思を操られたのに、自殺の責任まで負う必要なんてない。ベアトリスは大きく首を横に振った。
「お父様たちはきっと知っているわね。オーウェンから聞いたと思っていたのね」
「…ごめん。言うタイミングが分からなくて」
「いいわ。話し合いを避けていたのは私の方なんだから。それでお葬式は?」
「教会に頼んで彼女の領地に埋めたよ」
「そう」
爽やかな春の日差しがシャーロットを思い起こさせた。彼女のきゅっと上がった口角や大きな瞳、ピンクの頬が生き生きと蘇ってくる。あまりに死から遠いその表情に、全く実感が伴わなかった。
オーウェンは騎士訓練場にて一対五で対戦相手と向き合っている。お互いの手には剣の代わりに細長い木の棒を持ち、取り囲まれた状態で五人からの攻撃をかわす訓練だ。走り込みと腹筋、背筋を鍛えた後で、体力的にかなりきつい。
エイジの声が少し離れた場所から飛んでくる。
「オーウェン、疲れてくると上半身だけで動こうとする癖がある。バランスが崩れるとやられるぞ」
「オーウェン、足を開き過ぎだ!」
「オーウェン、ちゃんと間合いをはかって」
エイジは意外にもスパルタで、終わった頃にはへとへとになって地面に大の字で寝ころんだ。ぴゅうと大きな風が吹いて、オーウェンの髪を撫でた。はぁはぁと肩で息をし、腕が上がらない。
昔、王城で受けた騎士訓練がどれだけ特別待遇だったかが分かる。あるいはそれも、ロベールの指示であったか。
オーウェンは自分を消そうとした博学者の顔を空に思い浮かべた。
「体力不足だな」
エイジが隣にしゃがみ込み、上からオーウェンを覗き込んだ。
「体力不足…」
実感はあった。シャーロットの件で訓練をサボって遊び歩いていたせいだ。筋肉量も減っている気がする。
「ちゃんと寝てるか?軸がブレる時があるし、足元もふらついている。食事は?肉食べてるか?」
「…ここ数日は」
「気持ちだけじゃベアトリス様を守れない。何事も基礎から。これからは食事も睡眠も訓練と思ってしっかりな」
「はい!そうだ、俺、夜の見回りにも入れます」
「だから、ちゃんと寝ろって。がむしゃらにやったって結果はでないぞ。昼だけでいい。見回り場所は定期的に変わるから騎士棟でチェックして」
騎士の仕事に対して、ベアトリスは怪訝そうな顔をしたものの反対はしなかった。領地のことはマットから報告を受け、指示や注文を出している。ベアトリスも意見をくれるようになった。
強くなりたい。賢くなりたい。やらなければならない事は山ほどある。それでも不安はなかった。
「そう言えばベアトリス様。ポール公爵の息子との結婚話を蹴ったらしいな」
「はい!」
嬉しそうに上半身を起こした。漸く息も整ってきた。周りの騎士たちがそれを聞いて集まってくる。
「へえ。良かったじゃん!」
「俺はオーウェンを応援してたぜ!」
「正直、あいつの元へ嫁いだらどうしようかと思ってた」
騎士たちはオーウェンを応援しているのではない。ユーゴが気に入らないのだ。馬上槍試合での態度を忘れていない。
訓練場の近くを通りかかったベアトリスは、騎士たちに頭を撫でられているオーウェンを目撃し歩みを止めた。
「何やっているのかしら?」
随分と仲良くなったものね。
クスッと笑い、その場を後にした。
食事の最中、オーウェンに訓練を見たことを伝える。
「あなたの騎士姿も少しは板についてきたわね」
ベアトリスはナイフで鯛のポワレを切り、口に入れた。黒縁のお皿に鯛の白身が映える。ふっくらした身とパリパリの皮の対比が面白い。
「まだまだ体力がないって言われちゃった。ベアトリスを守れるようにもっと頑張るよ」
「楽しみにしているわ」
二人きりでの食事を終え、部屋でマットが送ってきた報告書に目を通す。ガタッと窓が揺れた。少し前から雨が降り出している。この様子だと夜は大雨になりそうだ。
ベアトリスが欠伸をした。
「なんだか眠くなってきちゃった」
「こんなに早く?珍しいね。俺も今日は早めに寝ようかな」
「そうね。そうしましょう。おやすみなさい」
「おやすみ」
ベアトリスは自分の部屋へと戻って行った。
オーウェンがベアトリスの誘拐に気づいたのは、翌朝だった。雨はすっかり上がっている。




