277.異変(9)
「ヒルデさん、いますか?」
扉をノックして中にいるであろうヒルデさんを呼んだ。昨日は必要な買い出しだけで終わったから、翌日になってからヒルデさんのところに来た。
昨日、ヒルデさんもスタンピードと戦う手続きをしたのか確認をしたかった。そして、できれば一緒に戦えないか相談をしたかった。しばらく、扉の前で待っていると扉が開く。
「リル、良く来たな。さぁ、中に入って」
「お邪魔します」
ヒルデさんがいた。いつものように中に入るように言われて、中へと入る。短い廊下を進み、リビングにやってくると、ソファーに座るように促された。
「この大変な中、良く来てくれたな。今は忙しいんじゃないのか?」
「必要なことは昨日で終わりましたし、あとはその時を待つだけになりました」
「もう準備ができたのか、流石はリルだな」
向かい合わせにソファーに座ると、何気ない会話をした。
「お茶でも飲むか?」
「いえ、今日は大丈夫です」
「まぁまぁ、そんなに時間がかからないし淹れてくるよ」
ソファーから立ったヒルデさんは台所へと消えていった。今日は長話をするつもりじゃないんだけど、なんだか悪いな。それにしても、いつも通りのヒルデさんだった。本当にスタンピードの戦いに参加するんだろうか?
部屋はいつも通りだし、何かを用意していた訳じゃない。それとももうすでに準備を終えているのかな? もし、そうだとしたら私に一言あってもいいと思うんだけど……何もなかった。
ヒルデさんがスタンピードの戦いに参加するのかしないのか考えていると、ヒルデさんがお茶を持って戻ってきた。
「いつものやつだ」
「ありがとうございます」
温かいお茶を受け取ると、一口飲む。ふぅ、落ち着く。
「それで、リルはどうしてここに来たんだ? 今は大変な時だから、私と話す余裕があるとは思えないが……」
「ヒルデさんはスタンピードの戦いに参加するんですか? 昨日、ヒルデさんらしい人が冒険者ギルドにいたのを見かけたので、そうなのかなっと思って確認しに来たんです」
説明するとヒルデさんの表情が曇る。一体、どうしたのだろう?
「参ったな、見られていたのか。……実はな冒険者ギルドに行ってスタンピードの戦いに参加しようとした。でも、やめてしまったんだ」
「えっ、どういうことですか?」
参加しようとしたけどやめた?
「はじめは参加する気で冒険者ギルドにやってきた。だが、いざ参加しようとすると、躊躇してしまった。前に参加したスタンピードを思い出してしまったんだ」
前のスタンピードというと、ヒルデさんをこんな体にした時のスタンピードのこと?
「あの時の恐怖が蘇ってしまって、体が震えた。大勢の魔物の前に無残に散らされた痛みを思い出してしまったんだ。また、同じようになるかもしれない……そう思ってしまった」
ヒルデさんをこんな体にしたスタンピードの恐ろしさ。それは、私が想像するよりも辛いことだろう。魔物に囲まれた時の絶望をヒルデさんは知ってしまったんだ。
「どれだけ剣を振るっても、魔物が次から次へと襲い掛かってきた。終わりのみえない戦いを前に、絶望しか感じなかった。私がこんなにも無力なんだと、思い知らされた」
「ヒルデさんは無力じゃありません! 私に戦い方を教えてくれましたし、一緒に魔物討伐もできました。ヒルデさんは強い人です」
「そう言ってくれると救われるよ。だが、今も私の中にあの時の恐怖が残っている。もう克服したと思っていたのに、いざスタンピードを目の前にするとダメだった。私はあの時から変わっていない、負け犬なんだ」
ヒルデさんは頭を抱えて項垂れた。こんなに落ち込む姿、初めて見た。ヒルデさんの中に残ったスタンピードの恐怖はとても根強いらしい。なんと声をかけたらいいのだろう?
「負け犬になった私はそれにふさわしい生活をした。スタンピードの恩賞で気ままで平和な日常、気が向いた時に働く。このままずっと負け犬のように暮していくと思っていたんだ。でも」
「でも?」
「リルと出会って、日々を懸命に生きる素晴らしさを知った。何事も前向きに取り組んで、目標に向かって突き進む姿に憧れさえ抱いた。リルを見て、少しずつ私の心は変わったんだ」
私の姿がヒルデさんの心を動かしたってこと? 特別なことはしていないと思うんだけど、少しでもヒルデさんのためになったのなら、少しは恩返しできたのかな?
「リルを見ていると堕落した生活から脱しようという考えが浮かんだ。だから、その一歩としてスタンピードに参加しようと思った。だが、ご覧の有様だ……結局私は変われなかった」
「ヒルデさん……」
「でも、変わりたい気持ちはずっとここに燻っていて苦しい。私もようやく前を向いて進みだしそうだったのに、それができない。負け犬のままで終わらせたくないのに、動けないんだ」
今を変えようと足掻いている。その気持ちは痛いほど分かる、私も立ち止まったことがあるから。どうにかしてあげたい、でもなんて言葉をかければいいの? そう悩んだ時だ。
カン カン カン
外からけたたましい鐘の音が響いた。
「スタンピードが起こったみたいだ」
これがスタンピードの合図。ということは、早く正門にいかないと。でも、このままのヒルデさんを捨て置けない。
「リルは行くんだろう? この町のことをよろしく頼んだぞ」
ヒルデさんの表情から諦めの色が滲み出ていた。スタンピードの戦いに参加して、今までの自分から脱する機会を逃すのは諦めたようだ。それじゃダメだよ、ヒルデさん!
「ヒルデさん、私は行ってきます」
「あぁ」
「でも、私はヒルデさんが来てくれるって信じていますから」
「リル?」
このままヒルデさんを捨て置けば、更生の機会は巡ってこない。だったら、ここで救いあげないとだめだ!
「スタンピードと初めて戦った時、怖かったです。地面を埋め尽くすほどの魔物が押し寄せる恐怖は言葉では言い表せないです。それでも、人々を守るために立ち向かわないといけません」
「……そうだな」
「私は人々を守りたいという気持ちでなんとかスタンピードに立ち向かっていけます。ヒルデさんは、どんな思いがあればスタンピードに立ち向かえますか?」
「思いか……リルのように真っすぐに立ち向かう勇気が私にもあればと思う」
「でしたら、私を見ていてください。私がヒルデさんを導きます。どうしても怖くなったら、ヒルデさんの手を引きます。ヒルデさんが立ち止まりそうになった時、その背を押します」
ヒルデさんは私が持っている勇気があれば立ち向かえるといった。だから、ヒルデさんがその勇気を持てるように私が尽力すればいい。私はヒルデさんに近寄ってその手を握った。
「ヒルデさんなら絶対にできます。スタンピードは一人で立ち向かうものじゃなくて、みんなで立ち向かうものです。ヒルデさんは一人じゃありません」
「リル……」
「私はヒルデさんに立ち直って欲しいと思ってます。大丈夫です、その力はあります。あとは踏み出すだけなんです」
真っすぐに見つめると、ヒルデさんの目が戸惑いで揺れ動く。まだ不安は残っているけど、きっと前を向いてくれたよね。私は手を離して、ヒルデさんから離れていく。
「先に行ってますね。後で必ず来てくださいよ」
「……あぁ、もう少し考えさせてくれ」
「はい」
私ができることはヒルデさんを信じて待つことだけだ。ヒルデさんなら立ち直って、やってきてくれるはず。強くそう思うと、私は家を後にした。




