参之拾参 教室へ
「じゃあ、卯木くんはここで待っていてくれ」
教室の扉の前で、雪子学校長からそう言われた瞬間、緊張からか、私の体が小刻みに震えだした。
「わ、わかりまひた」
承諾を伝える声も震えてしまっている。
つい先日、成人男性の教師として赴いた場所に、今、女子小学生として、制服を着て立っていると改めて意識することで、体全身におびただしい数の汗が噴き出していた。
ドキドキと心臓は早く動き、呼吸もしづらくなってきて、何故か息苦しい。
荒くなる呼吸の合間に、私は何度も唾を飲み込んでしまうことになった。
目の前が遠くなりそうな緊張感の中で、花子さんの手がランドセルの肩紐の上から優しく触れてくる。
「おかしな所は一つもありませんよ」
私の耳に届く程度の大きさで発せられた花子さんの囁きは、心地よく波紋を広げるように私の中にゆっくりと染み込んでいった。
それだけで緊張が解けきることは無かったけど、症状は少し緩和したように感じられ、私は気持ちを整える為の深く息を吐き出すことに成功する。
「ふぅーーーー」
気持ちが多少落ち着くと、この短時間で手の中や背中に噴き出した汗の感覚が伝わってきた。
多少不快だけど、そちらに意識が向いたせいか、より気持ちが落ち着いてきた気がする。
すると、気持ちが落ち着いてきた結果だろうか、教室内の声が耳に届くようになった。
「あー、まずは残念な報告がある」
雪子学校長の言葉に、誰一人声を発していないのに、ピンと空気が張り詰めたのがわかった。
すっかり頭から抜けていたけれど、この学校の子達は、普通ではない環境に置かれているのだと、私は再認識する。
そんな張り詰めた空気の中で、雪子学校長は『林田京一』の身に起こった不幸を語り出した。
話を聞く限りだと、林田京一青年は雪子学校長に頼まれた届け物をしに駅方面に向かった際に、暴走したトラクターからネコを助けようとして、どうにか間一髪で助け出したものの、着地した際に道路脇の側溝に転落し、足を骨折してしまい入院生活を余儀なくされてしまったらしい。
なんだか打ち合わせより修飾子が増えた上に、まるで目撃していたかのような臨場感の籠もった説明だったが、子供達は心配の声や林田青年の無事を祈る言葉を口にしてくれていた。
心配してくれる姿が嬉しい反面、騙していることになるのがかなり心苦しい。
それでも、この姿になってしまった以上、教師としてよりも、生徒として、同じ状況に置かれた仲間の一人として加わった方が良いという結論と方針を貫く為にも、私はそれを飲み込んだ。
雪子学校長や花子さんも賛同してくれているが、根底に自分が変わってしまったことを告白出来ない私自身の臆病さというか、覚悟を決めきれていない弱さなので、私自身が自分の苦さとして受け入れなければならない罪悪感だと思う。
私は心の中で、教室にいる皆に謝罪の気持ちを抱きながらも、そんな自分の偽善ぶりに、苦笑を浮かべた。
私が待機していた扉に向かって、雪子学校長が「さて、それでは良い方のニュースだ」と口にしながら視線を向けた。
続けて「卯木くん」と私を呼び込む声が響く。
私は再びこみ上げてきた緊張を、唾と共に飲み下すと、震えて感覚がおかしくなっている手足を無理に動かして、取っ手に手を掛けた。
動き出しこそ重かった扉は、力を込めるとガラガラと少し大きめな音を立てて、ゆっくりと滑り出す。
ガンッ。
出だしに反して滑りが良かった扉は思いっきり全開して、少し戻ってきた。
いきなりやらかしてしまったという事実に、ブルブルと体が震え出す。
とはいえ、何もしないわけにはいかないので、扉の動きが止まったことを確認した私は、教室に入る為に教室内に視線を向けると、私に集まっていた全員の視線と遭遇した。
「あー、みんな、卯木くんが緊張してしまうから、一旦こちらを向いてくれ」
パンパンと手を叩いて自分のいる教卓に視線を向けるように雪子学校長は訴えてくれた。
すると、東雲くんと志緒さんはすぐに視線を教卓に向け、それに遅れて那美さんも前を向く。
結花さんと舞花さんは、両手の拳を握って、ジェスチャーで応援してくれた後で、皆に倣って教卓に向き直った。
いきなり皆に気を遣わせてしまった事実に自分が情けなくなるが、落ち込んでいる場合じゃ無いと自分を奮い立たせて私は教室に足を踏み入れる。
視界の揺れ方が普段と違うなと思いながら歩みを進める私に、こちらを見た雪子学校長が「卯木くん、右手と右足が同時に出ているぞ」と苦笑した。
道理で歩きづらかったわけだと私の冷静な部分が納得し、一方で羞恥の爆発で体が熱くなった私は視線を落とす。
このままでは俯いたまま動けなくなってしまうと感じた瞬間、結花さんや舞花さんの応援の姿が脳裏を過り、このままではいけないという猛烈な訴えが、私の内から吹き出した。
カツカツと気付けば早足で黒板まで移動していた私の体は、おもむろにチョークを手に持つ。
その勢いのまま、チョークを筆圧で所々で粉砕させつつ、黒板に『卯木凛花』の四文字を書き切った。
私の意識を置き去りにして、勝手に動く私の体は、くるりと黒板の前で半回転して教室を見渡す向きに向き直る。
急回転で生じた遠心力で、ランドセルが私の体を引っ張る懐かしい感覚と、ふわりと空気を含んで広がったスカートがゆっくりと脚に着地する慣れない感覚がした直後、突然自動運転が終了した。




