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過去③

 あと三歩でデューゼロンの懐に届く。

 邪神の手が動くのが見えた――。あそこからディーネを仕留める力が発せられるのだろう、と頭が反射的に理解する。

(もうだめ、かしら)

 勿論それは嫌だ。でも、どうせ先が無いなら、自身の手でデューゼロンに致命傷を与えておかねばならない。これ以上、あの邪神による犠牲は出させまいと、ディーネは思った。


(だいじょうぶ。いままで、なんども練習してきたもの)


 おのが手に、強い思いと願いを込める。そしてデューゼロンの腹に手のひらを向けた。

 矢のように鋭い光が、デューゼロンの腹を貫き、

「ぐああああ!!」

 彼は断末魔のような声を上げた。

「くうっ」

 力を放出した反動で、ディーネの身体は後方に吹っ飛ばされた。思い切り、地面に身体を打ち付けられてしまう。

(でも、おわった……?)

 祈るように相手を窺うけれど、


「ふ……ふははは」

「!?」

 邪神は腹を片手で押さえて笑い、ディーネに向かって一歩一歩ちかづいてくる。


(しっぱいしたの?)

 目の前が真っ暗になったような気がした。これで、もう後はない。

「こんな子供が私をだましおおせて、傷を負わせるなんて」

「!」

 

 見ればデューゼロンは腹を押さえている。


「子供のつたない攻撃だったから、かろうじて避けられたが、そうしなければ……。我ながら油断したものだ」

 距離を詰めてくるデューゼロンに対し、倒れたままのディーネは息を切らしており、既に疲弊していた。彼女の目に映るデューゼロンの姿すら霞んで、二重に見えるほどだ。

(どうしよう。さっきの攻撃で、神力をほとんど使ってしまった。また力を集めるのには時間がかかるわ)


 絶対絶命の状況だ。

 ところが邪神のほうも何事か考え込んでいるように、ディーネを見つめていた。


「なる程な、この力だ。その焦げ茶の瞳も。忘れやしない、あいつの娘か」

「……」

(まさか、……ちちうえのことをいっているの?)

ディーネは口で問うことをしなかったが、デューゼロンは彼女の瞳から、ディーネの考えを読み取ったらしい。


「そう。最高神の座におさまっている、そなたの父親のことだ。奴とは昔一度たたかったことがある。覚えているぞ。……あいつは手を尽くして私の行方を捜しているらしいが、思い通りになどさせるものか。いつか出し抜いて、仕留めてやる。

 そうだ。その前に、ここでお前をどうにかして、あいつが泣く様を想像して楽しむとしようか」


「……勝手ばかり言いおって。自分と力の差がある幼神に対して、恥を知れ! これ以上、お前の好きにはさせぬ!」


いかったシアが吠え、その神力を幾筋もの光のやいばに変えて、デューゼロンに向けて飛ばすが――、

「邪魔だ」

「う、あ!!」

――またしても無駄だった。

 デューゼロンが少し指を動かしてみせただけで、シアは苦しみだし、地面に倒れる。


「シア様!!」


シアは決して弱いわけではない。未熟者のディーネにも、シアの発した刃の強さは分かった。しかし、それでもデューゼロンのほうが、ずっと強いのだ。


(はじめから、かなうわけなかった……)

 絶望の闇が、心を覆う。



「くくく。私の可愛い炎がお前と遊びたいと言っているぞ」


 笑いながらも憎悪を込めた目で睨みすえられ、ディーネは動けない。そうする間に、彼が放った黒い炎が迫ってきて、彼女の身体を締め付けた。

「きゃあっ」


「さあて、どうしてやろうか。……ああ、そうだ。誰にも解けない呪いをかけて、永遠に神力を使えない身体にしてやろう」

「あああああ!!」

 身体に食い込んでいく炎――皮膚に刻み込まれていく文様が、熱い。焦げ付きそうなほどに熱い。



「……あなた、みたいな……には……」

「ん? 何か言ったか」

「……あなたみたいなやつには屈しないっ!!」


「……本当に愚かな娘だ。あいつに似ているその強情な瞳が憎くて憎くて、私をたまらなくさせる」

「きゃあああ!」



「決めた。記憶の呪いもかけておくとしよう」

「!?」


「この呪いで、そなたは私と出会った前後のことをどうやっても思い出せなくなる。ははは。記憶なしには、そなたは私まで辿りつけない。だから、より完全に呪いを解くことは出来ない」

「そんな……」


どんどんと膨れ上がっていく絶望が口から零れ出る。どうして、この獣神は、ここまで残酷なことを思い付くのだろうと思った。



「だが喜べ。記憶だけならば――そなたの身体が熱に飲まれる時、或いは思い出すことが出来るだろう。それまでは全てを忘れ去り、無能な女神として生きるがいい。

 恥じることはない。私の呪いは記憶を取り戻したところで、そなたら如きには絶対に解けないのだから」


獣神は宙に浮かび上がる。これより立ち去ろうとしているらしい。



「ははは!

 もう一つ、親切心から教えてやろう。山神にも言っておけ。無理に記憶を戻そうとしたり、他の者が手を加えたりせぬほうが良いぞ、とな。二つの呪いが、より複雑に絡まる」



それだけ言い残して、獣神は跡形もなく姿を消した。


「っシア様!!」

 ディーネは力を振り絞り、ズルズルと身体を地に這わせて、シアに近寄る。

 心配したが、彼の腕に触れるとシアは目を覚ましてくれた。安堵がディーネの胸に広がる。


「……無茶をするな」


「ごめんなさい。きづいたら、からだが飛びだしていたの」

「それより先に呪いを見せろ!」

 焦りを滲ませた様子の山神は、ディーネに刻まれた文様に手を触れる。


「なんということだ。この文様は確かに誰にも消せそうにない。そなた自身の手ですら、解くことを禁じる構成になっている」

「そんな。じゃあ、もう、わたしは……」


「いや、悲観するな。奴は『この世の誰にも解けない』と言った。あれは『今世に生きる者――秘めた力を持つそなたや最高神を含めて――には、解くことが困難を極める』という意味だ。つまり『今より後に生まれてくる者には解ける可能性がある』ということ。だから時が満ちれば、そなたを助ける為に我が一族から誰か見込みのある者をつかわすと約束する――呪いのせいで、そなたは全てを忘れているかもしれないが」


「わたしのために、そこまでしてくださるのですか」

「勿論だ。私も尽力し、後生こうせいの育成に努める。

 ……そなたには一族を代表して礼を申そう。ありがとう。そなたのおかげで、この山の多くをそのままの姿で守ることが出来た。これは大きい」


 シアは近くの木を指さしてみせた。


「例えば、あの木。あれ一本でさえ、我々の先祖には大切な思い出を持つものなのだ。そういったものが、この山には無数にある。もし山の全てを破壊されてしまっていたら、神力を使って以前の姿に似せたところで、それは同じものではない。神であっても、死にゆく命を蘇らせることは出来ないからな」


 彼は空を見上げる。


「ああ、逃げた眷属たちも戻って来たな。これで、そなたともお別れだ」

「……え?」

「これよりデューゼロンや――そなたを含めて誰も今後ここへ立ち入ることがないよう、この野山を全てから断絶する。弊害として我々も外へ出られないことになるが、背に腹は代えられない。

 それに、私を見ると、そなたは記憶を無理やり引き戻そうとしてしまうかもしれない。やむを得まい」


「でも……、あ……れ?」

 頭の中がぼやけて、気を抜くと全てが曖昧になるような心地がする。忘れたくないのに、だんだんと記憶が薄れていく気がする。付けられた文様が確実に、ディーネの身体に馴染んでいっているのが分かった。

「もう……、あえないのですか? せっかく……おはなしもできたのに」

 シアは何も言わず、ただディーネを優しく抱きしめた。闘いで彼女が身に受けた傷が、シアの力によって、みるみるうちに治されていく。

 だが、すぐ身体を解放されてしまうと、その離れた距離を悲しく思った。



「二度と会うことが出来なくても、私の思いは後生に託そう」

「……そういうことをいっているんじゃないのに! わたしは、あなたとのことをはなしている……のに」




すると、そこで初めてシアは困ったように微笑んで、ただ首を横に振った。

「どうしても、だめなんですか……?」

「ああ」


 心が通じ合った途端に訪れた別れに、ディーネは涙を噛みしめ、俯いた。

 けれど彼女は、すぐに首を傾げ、顔を上げる。

(なぜ、わたしは泣いているんだろう?)


 目の前には誰もいない。


「……そなたにとって苦難の道は長く続くことだろう。だが、その先に幸運があるように……祈っている」

「? だれかいるの」


 声が聞こえた気がして彼女は辺りを見回したが、そこには何の姿もない。

 おかしいと思うことは、もう一つあった。

(衣装が破れて、泥だらけになっている……)

 このような有様になっているのに、先程まで何をしていたか思い出せないのが妙だった。


 ただ、ふと足元に視線を落とせば、どこか見覚えのある可愛らしい黄色の野花が一輪ひっそりと咲いていた。

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