過去②
身を潜めたディーネはデューゼロンを間近に感じ、ぞっとして身体を震わせる。
(ちかくにいればいるほど、なんて禍々しい気配……)
こんな恐ろしい神に出会うのは後にも先にも、これきりなのではないかと思うほどだった。この邪神の意識が自分の方に向いたらと考えるだけでたまらない。
「この辺りを縄張りにでもしている獣神か。尻尾を巻いて逃げ出しはしなかったようだな。誇り高き神が慌てふためいて逃げる様を見るのが、私の楽しみの一つなのだが」
「ほざけっ!」
(!!)
ブォン、とシアの怒りの咆哮で生まれた突風が一瞬で野を駆け抜けていく。後にはキーンと強烈な耳鳴りが残った。
(これから神同士の壮絶な闘いがはじまるんだわ)
胸元を握りしめて、ディーネはゴクリと息を飲み込む。
神々が本気で争ったら、大地は唯では済まない。ディーネやシアの眷属が隠れている所も、いつ惨状に見舞われるか知れない。
(まきこまれない内に、はやく立ち去らないといけない。……でも……ほんとうに逃げるしかできないの?)
シアの言ったことが正しいとは分かっていた。力を持たないディーネが、ここにいることは無意味だ。ならばシアに指示されたように逃げて、デューゼロンと渡り合える者を――例えば父を呼んでくることがディーネの役目なのではないかとも思う。
(だけど父上をよんでくるまでシア様は持ちこたえられる?)
ドクンドクンと早まる自らの鼓動が煩い。
シアの身を案じながらも、デューゼロンから逃げられる一瞬を待つ。
(わたしに神力が扱えたなら――)
扱えたなら、どうするというのか。神力を会得したばかりの身でシアと一緒に戦うなんて、夢物語だ。シアにとって何の助けにならないのは確実だった。
ディーネは己の小さな手のひらを見る。
(この身体に力が眠っているなら、いま出さなくてどうするの)
恐怖を抑え込み、目を閉じて、自分の中の脈動に耳をすませる。音を高めている心臓の内部を通り、全身を脈々と静かに流れているものを感じて――。
(見つけた!!)
彼女は勢いよく目を開くと自然に、前へと飛び出していた。と同時に、自分とは正反対の方角へ急いで去っていく者達とすれ違う。
(彼らがシア様の眷属ね。
逃げて逃げて、遠くに逃げて。わたしが少しでも時間をかせぐから)
ありったけの勇気をかきあつめて、ディーネはデューゼロンに相対する。
「もうやめて!」
懇願が通じる相手ではないことは百も承知だった。これまでにデューゼロンが犯してきた数々の非道を思えば、追いつめられた者の訴えに聞く耳を持たない性格だろうとは察しがつく。相手が女であろうが子どもであろうが、殺めることに躊躇はしないだろうとは痛いほど分かっている。彼女を咎めるシアの眼差しも、それを裏付けるようだった。
「愚か者。なぜ行かなかった!」
「あなたをおいて行くべきだと何度も思いました。だって、わたし神力が使えないから」
シアの叱責に対して、そう答えるしかない。
「『神力が使えない』……だと? ふはははは! 確かに神力があるのか伝わってこない! 傑作だな! しかも、そんなに身体を震わせて。強大な敵を前にして、足も竦んでいるんだろう。ここまですら歩いてこられるかな?」
デューゼロンはディーネを嘲笑う。それこそ彼女の望むところだった。
(できるだけ侮られたほうがいい。だって勝つ機会は一度きり。まだ敵がわたしを見くびっている、最初の一撃の時だけ)
「さあ来い。神力が使えぬ身で、どんな攻撃を見せてくれるのだ」
デューゼロンは両腕を広げて、ディーネの行動を待っている。どこまでも馬鹿にし、こちらの命を軽んじているらしい。
「いくわ!」
「……やめろっ!!」
シアの制止する声を無視して、彼女は走り出した。




