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王城㉓

 心地よい微風が、さらりと肌に触れて駆けていく。

 レオールとディーネは、しばらくの間どちらも口をきかなかった。何かを話す必要がないからだった。

 今の時間は吹き抜けていく風のように過ぎ去って消え、永久に戻りはしない。けれど両者にとって大事なときが、この場に存在したのは確かだった。その思い出をお互いの心に刻み付け、明日を生きていく。これからは、恋という面では二度と交わらない両者の道に別れて進むのだ。

「……ディーネ」

「っ、はい」

 ディーネはレオールに呼びかけられ、視線を上げる。


「ありがとう」

「……え?」


 まさかレオールに心のこもった声で礼まで言われるとは考えてもおらず、戸惑う。誇り高い彼が彼女の前で膝を折るようにして愛を乞うたのに、その気持ちを無下にしたのだ。ディーネとしては、どんな恨み言でも聞く気でいた。それが、こんなにも温かい態度を取られるとは思ってもみなかった。


「お前は知らないだろう、その一言だけで、どれだけ俺の心が慰められたかを。この思い出だけで、どれほど強く在れるかを。俺はお前に出会えて、本当の恋を知れただけで満足すべきなのだろう」

「!」

 ディーネは胸が締め付けられる思いがした。


(彼の愛には応えられないけれど、こんな私でも出来ることはしたい)


「私も……貴方に出会えて幸せでした。……レオール様」

「!」


名前を口にすると、レオールは目を見開いた後、「ありがとう」と泣きそうな顔で笑った。


「言いにくいことを言わせて済まなかった、だから、そのように気を遣った顔をするな。断られることは覚悟して言ったから、俺は大丈夫だ。

 それに求婚に失敗したとしても、お前のことが大事なことに変わりはない。マルクがいない今、俺のことを第一に頼りとしてくれて構わない。城に滞在中の配慮は充分にしているつもりだが、何か困ったことがあれば、遠慮なく言え。

 ……では、今日の茶会は、これでお開きにしよう。お前や民を守り幸せにする為、やらなければならないことが沢山あるから」


「はい、ありがとうございます。あまり、ご無理なさいませんよう」



 軽く頷いたレオールが、ロードナー兄弟の待つほうへ去っていく。その背中に向かって、これ以上かける言葉はない。今後レオールが前を向いていくと言うならば、彼女も負けずに自分のすべきことをしていこうと思った。……といっても、自分に何が出来るのか、まだまだ不明瞭だ。


「そういえば、ウォールデス様が予言されたという『光』の探索を陛下と一緒にする、と以前にお約束したけれど。でも戦争が始まったことで、向こうはお忙しそうだし。勿論のこと、当面は探索も中止でしょうね」

 あの時の約束が今や、遠い昔のことに思えた。あれからフィラルを旅行したり、マルクと別れたり、王城に滞在するようになったり……。他にも印象的なことが沢山ありすぎて、ディーネは落ち着いて身を休める暇が無かった。


 ふと彼女はテーブルの端に置いてあった筒を見下ろす。


(……このデッサンは、どうにかしてココ様にお返ししなければいけないわね。私が貰うわけにはいかないもの。王とココ様のお茶会は実現しなかったのだから)


 だが、すぐに返すと、怒り狂った令嬢に破られて無残なことになりそうなので、ディーネはそれを機会を見計らってからということに決めた。

 そこで自身も部屋に戻ろうと思い、姿を見せた女官達に片付けは任せ、足早に庭を抜けようとしたところで、


「お部屋に戻られるのですか?」


と、クリスに声をかけられる。


「そうです、クリスさん」

 声が上ずってしまった。

(私、今、少し挙動不審よね……)

 レオールを拒絶した直後で気持ちが整っていないからだ。

 だがクリスは普段通りに頭を下げて見せるだけで、余計なことは何も言わない。レオールとディーネの間で何かがあったと気付いているだろうに、見て見ぬ振りをしてくれる彼の態度は有難かった。




 どうやらディーネの為にレオールは「彼女を娶る気は無い」と、女官長達に名言してくれたらしい。その晩、女官長は一度ディーネに、迷いに迷った末で耐えかねたように、

「ディーネ様が以前に誰を愛していたとしても、陛下のお妃になって下さいませんか」

 と、言ってきた。

「……それは出来ません」

 失望させるだろうと分かった上で答えれば、アメイラは肩を落とすばかりだ。ディーネは無念そうな女そ官長達に申し訳なく思ったけれど、他にどうしようもなかった。

そんな重い空気が漂う中、ティーユが部屋に入ってくる。

「あの、ディーネ様。ココ様から、お手紙でございます」

「!」

 それはディーネを呼び出す為の、私的な手紙だった。文面は『明日、王城の薔薇園にて、お目にかかりたく存じます。お話ししたいことがあります』と、短いものだった。

 あんなことがあった後だ。気位の高いココがディーネに会いたがる理由が分からなかった。うんうんと悩みながら、開いた手紙と長い睨めっこしていると、「どうされましたか」とアメイラ達に声をかけられる。ディーネは少しためらいを見せた後で溜息を吐き、手紙を差し出した。

「こちらをどう思いますか?」

「……。行かれないほうが宜しいですね」

 ココの手紙を読んだ女官長は言った。

「私も正直、気は進まないのです」

「ご不調ということにされてはいかがですか。この間のようにご病気という名目ならばココ様の追及も拒めるのでは?」

 エルの提案に、ディーネは首を横に振る。

「それも考えましたが、ずっと有効な手段ではない気がします。いつまでも仮病で誤魔化せるものではないと思うのです」

「でも、行けば何をされるか分かりません。危険でございます。あのご令嬢は、失礼ですが、あまり信用できません」

「確かに。ディーネ様を招く理由が書かれていないのが不気味でございますね」

「あ……。もしかしたら」

 可能性は低いがデッサンを返してほしいということも有り得る気がした。ココとしては、それを直接的には書けなかっただけなのだとしたら、と。

 もしココの用というのがデッサンの件でなかったとしても、ここで返却するのが最善かもしれないとディーネは思った。これを逃せば、いつまたココと接触できるか分からない。


「やはり、お受けします。お返ししたい物がありますから」

「ですが――」

「あまり無茶はしませんから」

 ディーネは心配そうな女官長達をなだめたのだった。





***


 ココと約束した日は少し風が強かった。早朝には明るかった空が密集した雲によって半ば覆われ、午後には雨が降りそうな気配だ。ココは、未だ美しい薔薇の中で立っていた。

「来て下さって、ありがとう」

「いいえ」

 ココの表情は生気が無くて固い。令嬢の美貌は変わりなかったが、どことなく疲れを感じさせた。目も笑っておらず、油断なくディーネに視線を注がれている。

(お慕いしていた陛下に拒絶されたことで悩まれているのかしら)

 体調を崩しているのではないかと心配になったが、自分が何か言うのは嫌味になる気がして、口を噤む。

(それにココ様は私が陛下を拒んだことを知らないわよね)

 まだココは恐らくディーネが王の側室になると思い込んでいるはずだった。

(私から伝えるべきかしら?)

 だが、ここでディーネがココに真実を洩らせば、町娘ということになっているディーネが王を振り、彼の体面を傷つけたということにされてしまうかもしれない。

(慎重にならないと。後で上手くココさんに言える機会を見つけられればいいけれど)

 と思ったディーネは、その場で告げるのをやめた。


「あら、それは……」

 言う前にココはデッサンの入った黒筒に気付いたらしい。

「持参させていただきました」

 ディーネは言いながら、筒を差し出す。

 返却することは、ほんの少し惜しい気がしたけれど、仕方がないことだった。それよりもココがデッサンをディーネに預けてくれて、それを眺めていられた時間が幸せだったと思う。自分の手元にあった期間、デッサンは充分にディーネを励ましてくれていた。

 避けることの出来ない、別れの時が来たのだ。本来の持ち主のところへ、返すべき時が。


「ああ、……そうね」

 気のないようにココは言うと、両手を伸ばしてくる。ディーネは感謝の思いを込めて、令嬢の掌に筒を乗せた。

「ねえ、歩きましょうよ。王城の庭は広いわ。貴女、まだ見ていないところがあるでしょう。ここの景色は素晴らしいの。花も、ある程度なら私達の身分ならば摘んでも許されているわ。ほら、籠とハサミを持ってきたの。これは貴女が持ってちょうだい」

 ココは口を挟む隙を与えずに、身を翻す。ディーネは鋏を入れた籠を手に、黙ってついていった。女官達も距離を取って、後に付き従ってきた。



 最初は薔薇園の続きを歩いていた二人だったが、ディーネの前を行くココは薔薇に目もくれていなかった。

(こんなに綺麗に咲いているのに、もったいない)

 ディーネはその場で花々を眺めていたかったが、ココは立ち止まる気配を見せず、話しかけづらいものがあった。

(他に見たいものがあるのかもしれないわね。それで彼女の心が少しでも癒されるなら、何も言わないわ)

 ディーネはココの意向に無言で従うことにする。

 けれど、令嬢が向かう先が人気の全くない森だと気付くと、ディーネは躊躇した。入口で足を止めてしまった彼女に、ココが振り向く。


「どうなさったの? 早くいらっしゃって」

「ですが……」

「心配いらないわ。ここは木を伐り出して、主に王城の炊事や燃料に使う為の森よ。昔はもっと広かったらしいの。奥には昔、植物学者が手入れをしていた薬草園の跡も残っているわ」

「そう、ですか……」

 詳しい説明を受けても、踏み込む気が起きない。どうしてか、ここに入ったら取り返しのつかないことになるような予感がした。


「……いいわ、見せて驚かせてからにしようと思ったけれど、先に教えてあげましょう。

 あの日、陛下から厳しいお言葉を頂戴した、あの日のことよ。打ちのめされた私はフラフラと庭を歩き続けて、ここまで来たの。そして、薬草園があった所で珍しい滋養となる木の芽を沢山見つけたのですわ。ここまで言えば、分かるでしょう?」

「木の芽を採り、他の必要物資などと共に戦地へ届けられれば、我が軍の助けになるということですわね」

「そうよ。貴女も手を貸してくれるわね?」

「はい。そんな希少な植物までご存知なんて、ココ様は博識でいらっしゃいますね。しかも戦地への支援とは、見上げたお志でございます」


 ディーネの賞賛に、したり顔でココは微笑んで見せる。ディーネは、ようやく安心できた。

(本当にそんな物があるなら、行かなければならないわね)

 大丈夫だ、後ろからはクリスが付いてきているはず。彼と今朝会ったから、今日の護衛はクリスだということは分かっていた――だから、この後で何か予期せぬことがあり、ディーネや女官達に対応できないことが起きたとしても、クリスが手を貸してくれるだろう。そう思えば、ディーネは平静でいられた。


(部屋に戻ったら、その木の芽のことを詳しく調べてみましょう)

 そしてココの見つけた植物が、どうかマルクのいる軍が勝利する手助けとなればいいと願い、森へと足を踏み入れた。

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