王城⑬
夜が明けたのは辺りの明るさで知れたが、ディーネは起き上がるのが億劫で、「今日は誰かが起こしに来てくれるまで寝ていては駄目かしら」と思う。身体が熱くて怠く、のしかかってくるタウロスの体重が負担に感じられるのだ。
そのうちに、女官のエルとティーユがいつものように部屋へ出仕してきた。
「ご起床の時間でございます」
「は……い」
「ディーネ様? ご気分でも優れませんか」
「少し、身体が重くて」
「それは、いけません。すぐに女官長を呼びますから、どうか、そのままで!」
ディーネはエル達の言葉に甘えることにして、大人しく目を閉じる。その後に、呼ばれた女官長と医師が来たことすら気付かないほど、うつらうつらとしていた。
「お風邪のようです。この薬を飲んで安静にされていれば、直に快復なさるでしょう」
という、医師らしき男の声に、ようやく意識が戻る。
「ごめんなさい。皆様に迷惑をかけてしまって」
(また風邪を引いてしまったのね。私ったら軟弱……。今日も予定が詰まっているのに)
申し訳なさに、気弱になったディーネは涙が出そうになった。
「いいえ、今回のことは私達の責任でございます。主人の体調管理も我々の責任ですから。こちらこそ、昨日までディーネ様に無理を強いて申し訳ございませんでした。ゆっくりとなさって、どうか元気になって下さいませ」
「ありがとうございます。治るまでは横にならせてもらいますね……」
いつになく優しいアメイラの様子に安堵したものの、ディーネは女官が差し出してくれる水だけしか口にする気になれず、渡された粉薬を何とか飲み込む。それから彼女は、また眠ったのだった。
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次にディーネが目を覚ましたのは夜であった。記憶にある朝よりは眠れた分、具合がいい気がした。しかし、まだ身体が熱い。
人の気配がしたので顔だけ動かすと、寝台の側に持ち込まれた椅子に女官長が座って寝ている。深夜まで付きっきりで看病してくれて疲れさせてしまったのかもしれない、とディーネは申し訳なく思いながら女官長を眺めた。
(こんなところで、しかも何も掛けないで寝ていたら、私の風邪が移ってしまうわ)
起こして、他の部屋で休むように言おうとしたディーネは女官長の腕を軽く揺する。ところがアメイラは、なかなか目を覚まさない。
「あの……起きて下さい、起きて」
声をかけても、静かな寝息が続く。
(妙ね。でも単に眠りの深い性質の人なだけかしら)
こうなったら、自分のシーツを明け渡して、自身は他の物でも被って寝ようかと考え始めた。そこで、まずシーツを女官長の肩に纏わせる。そして暗い中、のろのろと起き上がった。
(そうだわ。控えの間に誰かいれば、アメイラさんをここに寝かせる手伝いをしてもらえて、そして私には他の寝台を用意してくれるかも。私は、どこだって休めればいいのよ)
そう思い付くと、ディーネは女官の姿を求めて、扉を開けようとした。しかし鍵がかけられていて、外に出ることすら不可能だった。
(? いつの間にか錠でも取り付けたのかしら。でも今日は女官長だって中にいて、いつ彼女が部屋を出たいと思い立つか分からないのに。
……でも錠は普通、内側に取り付けるものよね。ああ、考えがまとまらない!)
「開けて下さい」
取り敢えず外に声を掛けながら扉を叩いてみるが、反応がない。これでは仕方がないので、アメイラの移動は諦める。当初の考え通り、自分用に何かシーツの代わりになりそうなものを部屋内で探した。同時にタウロスの気配も探したが、いない。連れていかれたのだろうと、ディーネは思う。ようやく小さな白い箪笥の上に畳まれた二枚の膝掛けを見つけた頃には、彼女はふらふらになっていた。
その場に禍々しく異質な――――しかも、どこかで聞いたような声をディーネが耳にしたのは、その時だ。
「ホセの出来損ないの娘よ」
「!! 誰……」
いつから立っていたのだろう、頭巾の付いた黒いマントを着た背の高い男が、そこにいた。彼のマントは丈が長く、つま先まで隠れている。男は頭巾を深く被っているので、笑った口元しか見えない。そして頭巾は――――多少なりとも男の頭の形を表すはずであったが、まるで布の下に二本の角でもあるように、奇妙に膨らんでいた。
「久しぶりだな。と言っても覚えていないだろうが。記憶すら封じられているのでは、な」
「っ、まさか貴方は……!」
『――――――そなたの身体が熱に飲まれる時、或いは――――』
あの声が一瞬、彼女の脳裏に蘇る。どこかで聞いたことのある声だとは思ったが、ディーネの失くした記憶に関係あると思われる声にそっくりなのだった。
(もしかしたら私に惑いの術をかけたのは、この男なの?!)
彼女は困惑し、なかなか問いかけることすらままならない。
「今宵はお前の苦しむ姿を見る為だけに、この地へ降り立った」
立ちすくむ彼女をそのままに、男は吐き捨てるように言う。話された内容から、男が神である可能性が高いことと、己がとても憎まれていることを悟った。
「貴方が…………私に呪いをかけたのですか?」
「可哀想に父親からまで見放されて、争い合う人間の地に堕とされるとは!」
言葉通りに憐れんでいる様には全く見えない男は、彼女の質問を無視して言った。どうやらディーネの知りたいことに答える気は全然無いらしい。
「そうだ。見せてやろう、二つの軍がどのような状況かを。こんな所にいては知らないのだろう?」
「え?」
どくん、と一つ、ディーネの心臓が大きな音を立てた気がした。親切心から言い出した話ではないことは察しが付いたし、偽りを口にされるかもしれないとも思う。
それでも、マルク達の今を見せてくれるというならば機会を逃したくないと強く思ってしまうのだ。だから彼女は黙って、男のすることを見守った。
すると男は、彼女の目の前に右の掌を向けてくる。そこから忽然として黒い煙が現れたと思うと、それは闇色を濃くして渦を成し、密度を増す。男が手を下ろしても、渦は依然として同じ位置にあった。そして最後は水面のように何かを映し出す。――――――それは広がる荒野と、高い断崖という光景だった。
「今は夜だ。だが、いつ相手から奇襲が来るか分からず、両軍の兵士は落ち着かないでいる。
……反乱軍は戦況が不利になるにも関わらず、最初から断崖の上に兵営を置いている。断崖の頂上と繋がるのは、大きな岩だらけで狭くて見通しの悪い一本道だけ。王軍が敵に攻め込もうとするならば、そこを必然的に通らなければならない。しかし地の利を知り尽くした伏兵がいるから、うかつに手を出せないで、何度も荒野に仮設した自分達の兵営へ引き返している。こうなっては、頂上への道の入り口に兵達を待機させることしか出来なくなったようだ。
だが、これは籠城戦に似ている。反乱軍の兵糧が尽きるのを待てば勝利は確定するのだ。たっぷりと兵糧が運び込まれていようが、それが無くなる日が遅かれ早かれやってくる。自分達は危険も少なく他所から兵糧を補充できるから問題ない、と王軍の指揮官は考えているらしい」
(王軍の指揮官……。マルクだわ)
ディーネは彼のことを思い浮かべると、きゅうっと胸が苦しくなる。体調が悪いこともあり、眩暈がしてきた。
しかし、今はそれどころではないと己を戒める。
「問題は、そもそも反乱軍がどうして自ら断崖へ行ったのかということですね」
「その意図が分からないから、王軍は不気味がっているようだぞ。敵が何か思いもよらない手を仕掛けてくるのではないか、とな」
くくく、と男が笑う。
ディーネはマルクが無事に帰還することを心の中で祈るしか出来ない。
「おやおや。取るに足りない人間達に関することでまで苦悩する様を見せてくれるとは嬉しい。いや、それだけではないのか。……神々ですら、そのような目を稀にすることがあった。そうか、戦地へ赴いている人間の男の中に好いた者でもいるのだろう? なるほど、無能な女神は思った以上に不快だ。長くここにいては私まで悪影響を受けてしまう。さらばだ。そなたは永遠に神力が使えないままで、もがき苦しみ続けておればよい」
「ああっ、待って……!」
呼び止める間もなく、闇の中に男の姿がかき消える。ディーネの心に大きな不安だけを呼び込んで。




