王城④
翌朝、ディーネは鳥達の声で目を覚ました。
昨夜に甘えてきたので抱いて寝たタウロスは、彼女の身じろぎに薄目を開けたが再び閉じる。
ディーネは身体が重くて顔をしかめたが、すぐに気を取り直して、朝の眩い光と新鮮な空気を求めて窓辺に寄った。
彼女は青い柔らかなカーテンを横によけ、窓を開ければ、澄んだ風が入ってくる。空の高い所では二羽の白い鳥が戯れていた。
しかし、ふと視線を感じて真下を向くと、一階の外壁に沿うように立っていたクリスの紫の瞳と視線がかち合う。
「……クリスさん?」
小さく呟き、ディーネは会釈だけした。彼女の部屋は最上階つまり五階にあって、彼には今の声は届かなかったろうと思う。今は早朝なので大声を出して挨拶するわけにはいかない。城の人々を叩き起こしてしまうからだ。
(あそこに彼、いつから立っているのかしら)
もしかして、この城に来てからずっとだろうかと思うと、胸が急激に冷えていく。きっと彼は彼女の身を守ろうとしているのだと、ディーネは思い至った。
その時、扉を叩く音がして彼女は緩慢に振り返る。
「おはようございます、ディーネ様。お早いお目覚めでございますね」
「おはようございます」
今日もやる気に満ち溢れた女官長が近付いてくる。そして、ディーネが見ていた先——————もう背中を向けているクリスに気が付いた。
(これは、ちょうど良い機会かもしれないわ)
ディーネはアメイラに相談を持ち掛けることにした。
「あの。クリスさんのことなのですけれど、室内に来て待機するようにしてもらいたいと思っているのですが。あちらにいたのでは夜や明け方が寒いでしょうし————」
「いけません。ここは陛下以外、男子禁制です」
女官長の返答は冷たい。
「ですが、彼は私を守ろうとしていて……。もう少し待遇を変えることは出来ないのでしょうか?」
「これは決まりなのです。彼だけを特別扱いすることは許されません。それはクリス殿も理解されているからこそ、あちらに立って兵士のような役回りを受け入れていらっしゃるのでしょう。
他に何か心配事でも? このお部屋近辺は魔術が使えないようになっておりますので刺客への懸念も不要ですし、いざとなれば常に手前の部屋で控えている私がお役に立てると存じます。こう見えましても、多少の武術の心得はございますので」
言葉の締めくくりには胸を張って答えるアメイラに、ディーネは肩を落とす。クリスが憐れだった。
これまでのクリスの性格上、断っても彼女を守ろうとするだろうことは見当が付いたので、彼の待遇について女官長と交渉しようとしたが一刀両断される。
「……それでは、せめて彼に伝言をお願いします。『もっと休んで下さい。身体を労わってもらわないと、壊してしまいます』と」
「かしこまりました。ではディーネ様、お召替えを。本日も予定が詰まってございます」
「はい」
そうやってディーネは頷くしかなかった。
しかし結局、夜になってクリスの代理で女官から『お気遣いなさらず』という返答が来て、彼は激務を変えないだろうと痛感することになる。
**
それからも、ディーネにとって落ち着く暇の無い日々が続いていく。ただ、身体や気持ちの持ちようは忙しさに順応していった。配分というものを覚えたからである。ずっと緊張していたら身が持たないので、多少でも気を抜けるところは抜くようになった。王城の生活に慣れ、自己防衛の本能が自然と出てきたらしい。
ダンスやピアノは身体や手先を使うから大変だ。かと言って座って書物を元に、アメイラの言うところの必要知識の初歩————人間界の歴史などを教わって即覚えなければならない授業も付いて行きづらい。今も彼女が必死で書物の文章を目で追っていると、
「ディーネ様。今日はここまでにして城庭をご一緒に散歩致しましょうか」
と、姉と言ってもいい位の若い女性教師に言われる。
つい、「はい」と了承してしまってから、クリスもディーネの為に離れて付いてくるのだろうと思った。
「先生、タウロスも一緒に連れていって宜しいでしょうか。……あら? また、いないわ」
部屋の中を見回すが、いつの間にか犬はいなくなっている。タウロスは最近こういうことが多くなっていた。
(いつも一体どこで何をしているのかしら)
犬は部屋にいても、寝そべっていることが多い。もしや病気なのかと心配して医者に診てもらったが、『運動などで疲れて休んでいるだけだろうから、問題はない』とのことであった。
「いつも通り、夜には戻ってくるでしょうから大丈夫でございますよ」
「そうですね」
ディーネは頷き、散歩の支度を始めた。
*
晴天の下、清々しい風が紅薔薇の咲く園を通り抜けていく。
(私が疲れを見せてしまったから、外に連れ出してくれたのね。体力が無いのが恥ずかしいけれど、彼女の心遣いがありがたいわ)
ディーネは感謝して、隣を歩む教師を見た。が、
「あら、ロードナー様!」
と、女性は慌てたように小さく呟く。どうやらディーネのことより別のことに気を取られたらしかった。彼女達が通り過ぎかけた立派な大樹に身を預け、腕を胸の前で組んで立っている騎士が一人、その彼と向かい合うようにして佇む騎士がもう一人いたのだ。
(気配を消していたみたいだから気付かなかったわ。とにかく挨拶をしたほうがいいわよね)
「ご、ご機嫌よう」
大樹の長く太い枝の影が落ちた彼らの視線は射貫くように彼女を見ていた。
「どうも。ああ、そちらには行かれないほうが宜しいかと。いくら貴女でも陛下の散歩を邪魔されると、後が怖いですよ」
「そうそう。俺達は一度本気で怒らせてしまって懲りました」
(あら? この人達……)
ディーネは男達を見比べる。
髪型が一人は短髪、もう一人は長髪とで全然違うので一見では気付かなかったが、二人は同じ艶やかな銀髪と銀瞳を持っていて、よくよく見れば美しい顔の作りもどこか似ているようであった。
そして彼らは、彼女が二度ほど見かけたことのある者達だった。一度目はマルクの屋敷で、二度目はフィラル城から王城に来た時である。その二回とも王と共にいた彼らは、おそらくレオールを守る立場なのだと見当を付ける。しかしディーネが初めて王に出会った時には見なかったことを思い出し、あの日はマルクが彼らの代わりをしていたのかもしれない……と思った。
「似ていますか? 俺達、兄弟ですからね。そして平たく言うと、レオール様の側近かつ護衛の立場にいます。以後お見知り置き下さい」
樹に寄りかかっていないほうの短髪男が笑って答えた。
「フロイ。あまり騒ぐなよ、陛下がこちらに気付くだろう…………って、ほら言ったそばから」
顔をしかめて長髪のほうが注意をした時には、もう手遅れのようだった。ディーネは、遠くの紅薔薇の中で立つレオールが自分達を見ているのに気付く。そこで王に対して仕方なく彼女は膝を折って挨拶した。
けれどレオールは余計に睨んでくるばかりで、他に何の反応も見せない。
「私、これ以上あの御方のご機嫌を損ねない内に、もう退散したほうが宜しいでしょうか……?」
ディーネは顔を真っ青にして、誰に聞くともなく呟く。
すると、長髪男が言った。
「逃げちゃ駄目ですよ、レオール様が来ています。……貴女だけしか目に入っていないようですね」
言われた意味が分からず、歩いて近付いてくる王のほうに彼女は顔を向ける。確かにレオールは、その強い眼差しでディーネだけを見ていた。
(どうして!? なんだか私に一番怒っているみたいっ)
驚き、足がすくんでしまったところで、レオールが来た。そして強引に腕を引かれる。
「来い」
「えっ!?」
ディーネは、ずるずると庭園の中に引っ張られていく。助けを求めて騎士達を見たが、笑って手を振られた。彼らは「頑張って下さいね」「俺達も貴女には期待していますよ」と、あまり音を出さずに唇を動かして、薄情な言葉を掛けてくる。ディーネは見捨てられたと思った。
(これから私だけ怒られるのね……)
全員で叱責を受けるなら、精神的な負担は分散されるというものである。が、自分だけにレオールの怒りが向けられるとなると、心に計り知れない損害を受けそうだと思った。
(落ち着くのよ、私。まず黙って王の話を全部聞いて、きちんと最後に謝れば許してもらえるはずだわ!)
覚悟を決めたところで、レオールの足が止まり、手が離されて彼女達は向き合う。
「あいつらと何を話していた」
「え? …………お二人が、ご兄弟ということですとか」
「それから?」
(何で会話の内容を気にしているのかしら。貴方の悪口なんて言ってないわよ)
「あとは何を話したのかと聞いている」
ディーネが黙り込んでいると、より強い口調で尋ねられる。
「道で出会ったばかりで、そんなに沢山は話しておりません……。あ、今は陛下の邪魔をしてはいけないということは、お聞きしました」
「他には?」
「ええっと、……ございませんが」
そこまで話すと、やっとレオールの表情が少し柔らかくなる。
「あまり他の男に近付き過ぎたり、気安く口をきいて俺を試す真似をしたりするな。お前は王の側室になるのだろう」
(! この言い方って、まさか……。だって王には私、今まで素性をさんざん疑われて、酷いことを言われてきて……)
そんなわけがないと、ディーネは頭の中に突如浮かんでしまった考えを否定した。そして代わりに、ずっと彼に言いたかったことを口にする。
「あの、陛下。もし、お時間がございましたならば、…………以前お約束した戦争の話をお伺いしたいのですが」
「……そのことか。時間に余裕を持って話せる時にと思っていたんだが……、そんな時間は無理にでも捻出しないと、ありはしないしな。確かにお前の望み通りに今話してしまうほうが、都合が良いか」
ため息を吐いたレオールは、それから庭園内に備え付けられた白い蔦模様の長椅子にディーネを誘って横並びになって腰を下ろし、記憶を手繰るように遠くの空を見やるのだった。




