旅行⑩
翌日のディーネの気分は、嬉しいことに良かった。朝食に際してはいつも通りマルクの甘ったるい態度と攻防し、それが終わると一度部屋に戻って軽く身支度を整える。
今日はマルクの指定で、平常より簡素な身なりにしてあった。それはマルクも一緒である。領主達が町を歩いていると目立つから、ということだった。
カミラによる全身確認が終わると、ディーネは飾りの少ない白の帽子を被り、廊下に顔を出す。やっぱりマルクが待っていて、彼と彼女は同時に笑顔になる。
良い気分だったディーネが違和感を覚えたのは、城庭を歩いていた時であった。また人とすれ違った、と思ったのだ。
(今日は人が多いわね)
直近の記憶を探る。城を出る前は廊下で荷物を抱えたマーリとすれ違ったり、他のメイドが部屋から出てくるのを見たりした。王都の屋敷では使用人の姿を見かけることはほとんど無かったから、妙に気にかかる。
(これから何かあるのかしら?)
城全体の様子がどこか慌ただしいような印象を受ける。まるで、来たる何かに備えているかのようだった。だがマルクの顔を盗み見ても、彼は普段と変わらない。変わらないけれど、少しぎこちない気もした。
腑に落ちない気持ちのままディーネはマルクと共にそれぞれ馬に乗り、城門を出る。後ろからは、どうやら護衛でクリスたちが数名やはり身をやつして馬で付いてきている。昨日の襲撃を考えてのことらしい。
ディーネが雨でぬかるんだ地面に馬が足を取られないよう注意していると、彼が問いかけてきた。
「今日も町の近くまで飛ばしますか?」
「出来ればそうしたいのですが、実は先程から何度か帽子が飛ばされてしまいそうで気になっていて……。ですから今日はゆっくり馬を走らせても宜しいでしょうか。今位の速さなら急に風が吹いても、こうして片手で押さえられるので」
「ああ、そうですね。では天気も良いので、ゆっくり道中の景色を楽しみながら行くことにしましょう」
穏やかな会話をしながら森を行き、初めて通る道を使って、彼らは町に出た。
乗ってきた馬は、町を囲んで高く石を積み上げて固めた壁に設置された門を守る兵士に預ける。その兵士はマルクの正体が分かったらしいけれどマルクに目線で牽制され、緊張した面持ちであった。そのような観察も、町に一歩踏み出すと、ディーネの頭から吹き飛ぶ。
「わあ、すごいっ! こんなに沢山の建物が縦横に密集して!」
(これが人間の町なのね! 初めて近くで見るわ。
王都みたいに一つ一つの家に全て門があるわけじゃないのね)
「くくっ。元気があるのは嬉しいですが、そんなに興奮しては後まで体力が持ちませんよ?」
マルクに笑われるのも構わず、ディーネは歓声を上げながら、町をうろうろする。民衆が行きかう中をこうして自分の足で歩くと、人々の生活を肌で感じられるようで嬉しい。思いの外、皆元気で笑顔だ。それが領主であるマルクへの信頼から来ているなら、なお嬉しいと思った。
「中に入ってみたい店があったら、遠慮なく言って下さい」
「あっ……」
ディーネは一つの窓に目を奪われ、足を止めた。外の通りから、窓際に飾られた可愛い動物の小物が見えたのだ。
「気になるようでしたら入店してみましょう」
マルクに手を引かれ、木の扉を開ける。壁沿いに並ぶ大きな棚と、部屋の真ん中に設えられた六つのテーブルに陶器や毛糸で出来た小物が置かれている。
「可愛い……」
ディーネはテーブル上に陳列してあった、人の親指ほどの大きさの鳥を模した小物をかがんで眺めた。そこにあるのは鳥の家族の作品なのか、色や大きさ・表情の違う鳥がまとめて配置されている。目線を横にずらすと、怒った表情の弟鳥を見て慌てた顔になった兄鳥がいて、物語が付与されているのだと分かって面白い。
「気に入ったなら貴女の部屋に置きましょう」
マルクが言ってくれるけれど、慌てて首を横に振って固辞する。彼が彼女に物を与えすぎるのは、身をもって知っているからだ。
「他の所も見ましょう!」
そう言って、ディーネはマルクの手を引っ張って外に出た。
連れ立って町の中央を目指すうちに、美味しそうな匂いの食べ物を売る露店というものの前を通りかかると、朝食は食べてきたのに目が行ってしまう。
彼女にとって、何もかもが新鮮な体験だった。楽しさを満喫していた時、突然——————目の前に黒い集団が現れた。一瞬、ディーネは何が起きているのか分からなかった。
「っ、離れていて下さい!」
口早に言って、マルクがディーネを後ろに押しやる。
通りのあちこちで人々の悲鳴が上がったかと思うと、混乱した民衆は四方に逃げていき――。刺客達だと彼女が察した頃には、マルクやクリス達は剣で戦い始めていた。
敵の数は多かった。十人はいそうである。こちらは、その半数しかいない。けれどディーネは無力で、彼らを見守るしか出来ないのだ。彼女は帽子を無意識に取って、両手で縁を強く握る。
「っ」
強風が吹き、崩れて解けた髪が横に流れて顔にかかった。彼女の髪をまとめていたチェリカ形の大きな髪留めを、逃げ惑う人々にぶつかった際に落としたせいらしい。足元に視線を投げてみるけれど、駆けていく別の人間に蹴られてしまったのか見当たらなかった。
「!!」
立ち止まったことが人の邪魔になり、更に二回ぶつかる。その時、誰かの服の釦が引っ掛かったのか、ディーネの髪が軽く攫われた。まるで櫛を通されたような、————誰かの指先で弄ばれたかのような感触だった。
(ここにいては危ないわ)
彼女は人と衝突しないよう、後退して家の壁に背を付ける。目で探しても、走り去る人の群ればかりでマルクは見えない状態になっていた。
不安に駆られていると突如として、——————誰か男が彼女の目の前に立った。マルクが身をやつしたのと同じような格好をしていたので、貴族かと何となく思う。
ディーネは背の高い男の顔を見上げ、目線を合わせた。腰まである長い艶やかな髪と、冷たく感情の無い紫の瞳がそこにあった。どこかクリスを思わせる色合いだった。けれど、豪雪を吹き付けてくる闇空の一点に吸い込まれるような心許なさは、初めてクリスの瞳を間近で覗き込んだ時以上だ。
(どうして……私の目の前で立ち止まっているの?)
他の人間達は皆その場から、なりふり構わず逃げていく。なのに、その男は黙って彼女を見下ろしていた。そのことにディーネは寒気を感じた。そんな彼女の不審の色すら見逃さぬように視線を逸らさない男は、拾ったらしいディーネの髪留めを無言で差し出してくる。
(あ、親切に届けてくれただけなのね)
いくぶんか緊張が解け、ぎこちない笑みを浮かべた彼女は髪留めに片手を伸ばす。
「ありがとうございま————」
「驚いた。想像以上だ。何もかも、……その声も」
「え?」
男の楽し気かつ不自然な呟きが聞こえたのは、ディーネが彼の手から髪留めを取り上げて直ぐ後のことだった。彼女が髪飾りから視線を上に戻した時、既に男は踵を返していた。そして、彼はそのまま人ごみに消えてしまった。
(今の言葉は何? 聞き間違いかしら。……そうよ、聞き間違いよね。だって何もされなかったし…………)
「ディーネ嬢!」
マルクが蒼白な顔をして駆けてくる。
「マルク様……。ご無事で良かった」
「…………ええ、手こずってしまいましたが。貴女も怪我は無いようですね。ならばここの対処は町の兵士に任せて、より警備の厚い城に戻りましょう。さあ、来て下さい」
彼は厳しい顔のまま、ディーネの肩を抱いて駆け出した。押し寄せる人々によって混乱のきたした門に着くと、マルク達は預けた馬を自分の手で引き出す。
————帰り道は、マルクもディーネも無言だった。ただ、馬を飛ばす。それだけであった。
城に着いて厩に馬を引き渡すと、初めてマルクは口を開く。
「すいません。反乱軍に対する私の認識が甘かったようです。事態は予想よりもずっと深刻らしい。……非常に残念ですが、旅行は一日早く切り上げましょう」
「えっ」
ディーネが文句を言う状況でないのは分かっていた。でも心のほうは、そんなに単純なものではない。
マルクは淡々として一人、話し続ける。
「ですから貴方は明日にでも、一足先に王都の屋敷に戻って下さい。私は私のするべきことをしてから帰ります。屋敷までの道で貴女の身に危険が及ぶことはありません、クリスに護衛させますから。彼は優秀ですから、確実に貴女を守る。何もかも心配不要です」
(心配不要……、確かにそうかもしれないけれど、でも……そんな言葉で片付けないでよ)
先程の恐怖と不安で気が昂ぶっているせいか、彼に今伝えるべき言葉が分からない。その代わりに我儘と、彼を責めるような物言いをしてしまう。
「私の身はクリスさんではなくて、貴方が守ってくれるのではなかったのですか。フィラル城に一緒に来る時に、そう貴方は言っていたじゃないですか!」
(そうじゃないのに。こんなことではなくて、彼を気遣うことを言いたいのに)
「ディーネ嬢…………」
「貴方がくれるのは物と甘い言葉と仕草だけ。なのに肝心な時になると、私の側にはいようとしないのですね」
「違う……」
「いつも私を翻弄して、良い気にさせておいて、もう手のひらを返すのですか。それが貴方の本心だったのですね。私は貴方にとって、すぐに手放しても惜しくない程度の存在だったということですか?」
「違う!!」
気付けば、ディーネはマルクに強く抱き締められていた。
「貴女は分かっていない、私がどんなに貴女を愛しているか。貴女は私の半身、私の心臓、私の運命。他の物は何一つ要らない、ただ貴女だけ側にいてくれたら、それだけで幸せなのに」
「……私だって同じです」
「それは初耳ですよ。これまで貴女は私に希望を持たせることは何も口にしてくれなかった」
「だって貴方が沢山言うので、私は言わなくてもいいかなって……」
(それは嘘で、私は女神だから許されない恋だと思ったのよ。言えるはずないじゃない)
「そんなことが言い訳になると本気で思ってはいませんよね」
「……はい、思ってないです」
(怒るのも当たり前の返答だったけど、怒らないでほしい……なんていうのは、自分勝手ね)
「私の気持ちを理解してもらったところで、部屋に戻って今日は休んで下さい。夕食は部屋まで運ばせますから」
「…………」
「……では」
ディーネの返事も聞かないまま、マルクは背中を向けて歩いていく。
「っ……寂しいです!」
思い切って、ディーネは彼の背に一言ぶつけた。
「は?」
「貴方の素っ気なさが寂しいです」
マルクを振り向かせることに成功し、彼女はほんの少し安心する。
「……私だって寂しいですよ。だからこそ、早く貴女との時間をまた取れるように頑張るつもりです。私は、いつだって貴女を愛している。それだけは決して忘れないで下さい」
彼は、じっとディーネの姿を目に焼き付けるように見てから、今度は本当に行ってしまう。彼女はぼんやりして立ちすくんでいた。
(…………何だか煩い)
ざわついている人々の声が耳に響いて、心がささくれ立つ。今朝に引き続き、使用人達は何かに追われているようだった。しかし、その理由を追及する余裕は今の彼女にはないのであった。




