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旅行⑥

朝食後、

「こちらが当家自慢の図書室ですね。私の先祖が、本が日焼けして痛まないように地下を深く掘らせて部屋を作ったという話です。そうすると確かに利点があるのですが(かび)も発生するので、定期的に陰干しをさせています」

と、マルクによって案内されたのは、敷地内にある別館の地下にある大図書室だった。

横もすごいが、縦の奥ゆきも際限がないように見える。部屋の中には中央を見下ろせる手すりや、更には付属室があって、どこもかしこも本棚ばかりが林立していた。


「広い……。どこまで続いているのかしらというくらいですね」



「ほとんどが先代までの当主が集めたものですので、古い物が主です。私が普段使うかもしれないと思った資料は王都の屋敷に移してしまったので、そちらが入用でしたら帰ってからいくらでもどうぞ。

それから、どちらの図書室でも貴女の部屋でゆっくり読みたい物があれば自由に持ち出してもらっていいし、手元に欲しい本があれば家老のゾルドか執事のロメイウにだけ言ってもらえれば差し上げます。わずらわしいとお思いでしょうが、彼らも目録からその書名を削除するなり新たに補充するなりする仕事があるので」


マルクは、彼に対してディーネが本の題名を伏せたいと思っているのを理解しているらしい。その上での彼の配慮が有難かった。



「本を頂くところまで甘えるのは避けたいですけど、でも貴方のご厚意は嬉しいです。ありがとうございます、マルク様」

感謝の念を伝えたくて、親密に彼の名前を口にすると「不意打ちですね」と破顔された。そんな表情をされると、彼女まで満たされるような、くすぐったい気持ちになる。



「私は向こうにいますから、読みたい物があれば持ってきて下さい。部屋内で迷ったら声を上げてくれれば迎えに行きます」

「分かりました。迷子にならないよう気を付けますね」


(目的の本がどこにあるのか探すだけでも一日かかりそう。見つけようというほうが無謀ね。こうして探索するのを楽しむだけでもいいわ。本は嫌いじゃないし)


今は、個々の棚がどういったふうに分類され並べられているのかすら検討が付いていない。まずは、その秩序を見いだすことから始めなければならない。



(この棚は歴史、ここは地理、あの本棚は言語。魔術は言葉からも成るものだから、この辺りに関係資料があってもおかしくないわね。

 あっ、ほら、あった。『魔術大成( 二)』! 気になるわ、これ!!)


はやる心を抑え、ぱらぱらと頁を捲る。そこで、


「ディーネ嬢」

と、離れたところから、マルクの声が聞こえた気がした。

「はい!」と返事をすると、また声が返ってくる。

「興味のひかれた本はありましたか?」

「ええ……、ありました」

「それは良かった」


(……少しの間でいいから、どこかに行ってくれないかしら。彼がいると思うと、集中して読めないのだけれど)

ディーネは家主に対して随分な願いを、心の中で呟いてみる。



「一度こちらへいらっしゃい。ここは地下で余計に冷えますね。記憶より酷い。少し階上に行って休憩しましょう」

「分かりました」

(確かに肌寒いわ)

本を棚に戻し、マルクの声がしたほうへ行く。



石の階段を上って戻り、一階の部屋でお茶を用意してもらう。だが、そこには何故か椅子が一つしかない。

「さあ、貴女も座って下さい」



さっさと自分だけ座った彼から伸ばされた手が示すもの。————明らかにマルクはディーネに、彼の膝上に座れと言外で告げてきているのだった。

「いえ、結構です……」

彼女は、じりじりと後ずさった。

「遠慮しないで、いらっしゃい」

「!」



マルクは素早く立ち上がり、ディーネの腕を引っ張った。再び彼は元の席に収まり、その上にディーネが座る形になっている。

「駄目です、離してっ」


急いで立ち上がろうとしたが、後ろから抱き締められてしまって身動きが取れない。

「昨夜も今朝も貴女に触れるのをお預けさせられたので、いいでしょう? これくらい」

「良くないです! こんな体勢、…………あっ、んんっ」

かがみ込んできた彼に唇を奪われる。いきなりの接吻に驚き、不埒な男の腕を引きはがして逃れようとするも、力では敵わない。


結局ディーネは激しい口付けに翻弄されてしまい、はあはあと荒い息を吐くことになった。

次は身体が浮き上がる。持ち上げられたのだ。そのまま、マルクが座っていた椅子に下ろされた。


「動かないで、ここで待っていて下さい」

打って変わって不自然なほどに強い口調で言われるが、ディーネはそれどころではない。

(動こうと思ったって、動けないわよ!!)


すっかり腰が抜けてしまったみたいであった。


(もうっ、本当に勝手なんだから!)

火照る頬を持て余しながら、ぐったりと椅子に沈み込む。しかし、その熱は一瞬で冷めてしまった。

「——————っ、何!?」


決して聞き間違えではない。確かに外から、雨音に混じって剣が打ち合わされる音が届いてくる。ディーネは勢いよく椅子から立ち上がった。身体が恐怖で震える。

「マルク様っ」


マルクに動くなと言われたことは、すぐに頭から抜け落ちた。さっき彼が出ていった外へ続く扉を、少し開けて覗く。土砂降りの雨と木々に視界が遮られて、詳しい状況は分からない。ただ、マルクの濡れた立ち姿だけは見えた。


「マルク、様っ」

扉から飛び出し、ディーネはマルクのほうに駆け出す。

「来てはいけない!」

その鋭い叫びに、ディーネは足を止める。

「来ては、いけない。————来るな」


 振り返らずに最後は優しく、マルクは言った。その足元に見慣れない男が気を失って転がっている。怪我はしているようだが、ちゃんと息はあった。

 斜雨の中にあるマルクは一度マルクは腰に下げた鞘に剣を戻すと、ようやくディーネを見る。だが辺りが暗いせいで彼の表情は定かではなかった。


「太刀筋から見て、反乱軍の回し者でしょう。意外に手練だったので一人逃したけれど、クリスが追ったので大丈夫です」

「……お怪我は?」

「ありません。それよりも早く中へ。貴女が濡れてしまう」

「そんなの、どうだっていいですから!」

「良くない。また貴女が風邪を引いて倒れるようなことがあれば、私は……」



 マルクの静止は聞かずに、ディーネは彼に近付いた。


「……ドレスの裾が泥で汚れてしまっていますよ。だから来るなと、あれほど言ったのに貴女は」


 彼の声は平静すぎて、違和感があった。

(どうして、こんなに落ち着いているの? 急襲された直後なのに)



「だって、貴方が心配で…………」

 ディーネは消え入りそうな声で自分の気持ちを告げた。

「今は、そんな可愛らしいことを口にしないで下さい。ゆっくり貴女を抱き締めていたいけれど、そうもしていられないから」


 苦笑して軽口を叩くマルクだが、どこか変に見える。そう、彼の目は爛々と光っていた。戦いを終えたばかりでマルクは興奮しているのだと、ディーネは思った。



(どうして、このまま彼を放っておけるというの?

もう知っているのに。厚い鎧を被った彼の中の、柔らかな優しい傷付いた心を)




「では私が抱きます」

「え?」

 ディーネは死体を避けてマルクの傍に行き、戸惑う彼の胴体を腕で抱き締める。彼に密着することで、マルクの服に浸透していた雨水がドレスにも移ってくる。

 抱き締めたことで、ふっと彼の身体から強ばりが解けたのが分かった。何かの(せき)を切ったように彼もまた、ディーネを包み込むように腕を回してきた。


「こんなところに来てはいけないと言ったのに! もう、こんなに濡れている。貴女には自分の身体を大切にしてもらって、冷やしてなんかほしくないというのに……」

「大丈夫、大丈夫ですから」


「私を構ってくれるから、汚れてはいけない貴女が泥をまとってしまった。愛おしい貴女には、いつまでも純真で気高くあってほしいと願っていたのに」


「泣かないで下さい。私が……、こうしたいと思ったのです」

 嗚咽を堪える男の胸に、彼女は顔をうずめた。冷たい雨は全ての感覚を奪い、強く触れ合っているお互いしか分からなくなっていく。


「…………城の中へ戻り、着替えて燃えた暖炉の前に座って暖かいお茶を飲み直しましょう。走りますよ」

「はい」


 マルクに手を引かれたディーネは、自分達の部屋がある本館へと雨の中を駆けた。

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