吐息
天気が続いていた数日の後に、雨はやって来た。
まだ外も薄暗い時分にディーネは目覚めて、寝台から起き上がる。肌寒さを感じて肩掛けを羽織り、窓硝子に近寄って空や庭を眺めていると、この建物から誰かが出てくるのが見えた。それはマルクと私兵達だった。
(こんなに早い時間に仕事へ出かけるのね)
城仕えというのは大変なのだな、と思わず同情してしまう。そのまま、じっとマルクの後ろ姿を見ていたら、ふいに彼が振り返って、こちらを見上げた。互いの目が合ったことに、ディーネは驚いて身体をこわばらせる。その間もマルクは彼女を見つめ、やがて穏やかな微笑みを見せてから歩み去った。
(どうして、あんな顔をするの。私、何かしてしまったのかしら)
あんな彼の表情を見たのは初めてで、胸の鼓動が妙にうるさく速まっている。
(…………あ。この状況、まるで私が妻として夫の彼を見送ったみたいじゃない?)
思い当れば、とても恥ずかしいことだった。でも彼を喜ばせてしまったことは、不思議と嫌ではない。許される感情ではないにしても。
(そうよ、こんな気持ちはいけない!)
ぶんぶんと首を横に振って自身で否定を示し、赤い顔を風で冷ます。気付けば、マルクの姿はとうになかった。
「明日も明後日も、私がここにいる間はずっと……彼を見送ろうかな。でも……」
衣食住を世話になっているのだから、毎朝早起きしてマルクを見送ることは当然のことに思えた。なのに実行するとなると、どうしてか気が重くなる。マルクのことが、遠い存在に思えた。近いうちに戦争へ行って当分戻らないだろう彼と、この屋敷から離れるだろうディーネ。二度と会うこともないだろう両者。これこそが、変わることのない位置関係なのだった。
彼と自分との間の隔たりは、決して埋まることがないように見えた。人間の男と女神では、存在すら相容れない。結ばれても、幸せは長く続かないことは明らかだった。両者の一番大きな違いは、寿命である。おそらくマルクが老いても、ディーネは若いままになる。そしてマルクが死んでも、ディーネは若々しく生き続ける。最愛の者が死んでいくのを、為す術も無く見ているだけしか出来ないままで。
彼だって、そんな結末は望まないはずだった。すぐに年老いていく人間からすれば、いつまでも年を取らない彼女は気味悪く思われるに違いなかった。誰にそんな目で見られようと耐えられるかもしれないが、マルクにだけは嫌だった。
(怖い。いつも私を賞賛する貴方の目が変わってしまうことが。私への賛辞と愛を惜しまない唇が、いつか冷たい言葉しか形作らなくなることが。…………そうなってしまう前に自分で貴方とお別れするわ。いつまでも貴方の幸福が続くことを願うから)
自分の吐息で窓硝子が曇り、その白さが直ぐに薄くなるのを彼女はぼんやりと眺めた。
その時、
「お嬢様、もうお目覚めでしたか」
と、カミラが隣室から現れて、ディーネは我に返る。
「お早う。今ね、将軍が窓の下に見えたの。もう出掛けられたみたい。早いのね」
明るくした声が空々しく響くがメイドは気付かずに、
「旦那様は有能で、常に働きづめな御方です。御身体を壊されないかが心配ですね」
と、相槌を打ってくる。
ディーネはただ、「そうね」と同意するだけだった。




