崩れ落ちた砂の城 ―ある経営者の独白―
西園寺剛の朝は、常に優越感と共に始まる。都心の一等地に聳え立つタワーマンションの最上階。窓一面に広がる都会の景色を眼下に、最高級の豆で淹れたコーヒーを嗜む。新聞の経済面に踊る『西園寺建設』の文字は、いつも景気の良いものばかりだ。
先代である父親が興した地方の小さな工務店を、俺は一代で準大手のゼネコンにまで押し上げた。そのためには、多少の汚れ仕事も厭わなかった。裏金、談合、グレーな節税。世間はそれを悪と呼ぶのかもしれないが、俺に言わせれば、それは会社を、社員を、そして家族を守るための「経営のテクニック」に過ぎない。この国では、清濁併せ呑む度量のある人間だけが、頂点に立てるのだ。
「親父、おはよう」
リビングに現れた息子の蓮は、昨夜もどこかで派手に遊んできたのだろう。高価なブランドのシャツを着崩し、微かに甘い香水の匂いを漂わせている。俺の築いた財産の上で、何不自由なく生きる愚息。だが、俺はそんな蓮を甘やかしている自覚があったし、それを悪いことだとは思っていなかった。男は甲斐性だ。自分の息子に、金の心配などさせずに自由に生きさせてやれる。それこそが、成功者の証だと信じていた。
「蓮か。大学はどうなんだ、ちゃんと行っているのか」
「まあ、そこそこね。それより親父、聞いてくれよ。最近、めちゃくちゃ可愛い子と付き合い始めたんだ」
蓮が自慢げにスマホの画面を見せてくる。そこに映っていたのは、確かに人目を引く華やかな少女だった。若さと自信に満ち溢れている。
「ほう、なかなかいい女じゃないか。どこのお嬢さんだ?」
「それがさ、まだ高校生なんだよ。しかも、幼馴染の婚約者がいるっていうおまけ付き」
蓮は悪びれもせず、むしろゲームのトロフィーでも見せびらかすかのように笑った。婚約者がいる、という言葉に一瞬眉をひそめたが、すぐに俺も口の端を上げた。
「はっ、お前も隅に置けないな。だが、面倒なことになる前に手を引けよ。後始末は高くつくぞ」
「大丈夫だって。相手の男、なんか優しすぎるだけのつまんない奴らしいから。俺に夢中だよ」
その時は、それで会話は終わった。まさか、この息子の些細な火遊びが、俺が三十年かけて築き上げてきた砂の城を、根こそぎ崩壊させる引き金になろうとは。その「つまんない奴」というのが、決して触れてはならない聖域の住人であったことなど、知る由もなかった。
異変は、ある日突然やってきた。何の前触れもなく、国税庁の査察官が十数人で会社になだれ込んできたのだ。いわゆるマルサだ。これまでも何度か税務調査は経験してきたが、今回は様子が全く違った。彼らは、まるで会社の内部構造を全て知り尽くしているかのように、ピンポイントで隠し金庫の場所や、裏帳簿のありかを突き止めていく。俺が最も信頼していた経理部長の顔は、紙のように真っ白になっていた。
「どういうことだ…?」
最初は、まだ余裕があった。いつものように、懇意にしている大物政治家に電話を入れる。しかし、いつもなら「西園寺社長、任せてください」と快く応じてくれるはずの男は、気まずそうに言葉を濁した。
「いや、それが…今回は少し根が深いようでして。私の一存ではどうにも…」
他のルートも全て駄目だった。誰もが、まるで疫病神を避けるかのように俺から距離を取る。何かがおかしい。これは、ただの査察ではない。
追い打ちをかけるように、大手週刊誌が西園寺建設のスキャンダルを大々的に報じた。公にされていないはずの脱税疑惑、談合の証拠音声。ごく一部の人間しか知り得ない情報が、なぜか白日の下に晒されている。株価は暴落し、会社の電話は抗議と契約解除の連絡で鳴りやまなくなった。
さらに、長年のライバルであった大手ゼネコンが、この機を逃すまいと動き出した。まるでこちらの顧客リストが筒抜けになっているかのように、的確に、そして素早くこちらの主要取引先を次々と奪っていく。その手際の良さは、異常としか言いようがなかった。
「嵌められた…!」
俺は社長室で一人、叫んだ。これは事故ではない。明確な殺意を持った何者かが、俺たち西園寺家を社会的に抹殺しようとしているのだ。
一体誰だ?これまで、恨みを買うような相手は掃いて捨てるほどいた。だが、ここまで完璧に、静かに、そして致命的に俺を追い詰めることができる人間など、いるはずがない。法と、経済と、情報を、まるで手駒のように自在に操る、巨大な黒い影。その正体に、全く心当たりがなかった。
銀行は手のひらを返し、すべての融資を停止した。資金繰りは完全にショートし、会社は為す術なく倒産へと突き進んでいった。
砂の城は、かくもあっけなく崩れ落ちた。
会社は破産し、タワーマンションも、高級外車も、俺が成功の証としてきた全ての財産は差し押さえられた。妻は泣き崩れるばかりで、蓮は「どうしてくれるんだ!」と俺を罵り、安アパートの一室に引きこもっている。俺は、日雇いの仕事をしながら、惨めな残骸の中でただ呆然とするしかなかった。
しかし、このままでは終われない。なぜだ。誰が、俺の人生をここまでめちゃくちゃにしたのか。それだけはどうしても知りたかった。俺は、なけなしの金と、かつての人脈の最後の残滓をかき集め、古くからの付き合いがある興信所の所長に調査を依頼した。
「西園寺さん…まだそんな金があったのか」
「これが最後だ。頼む。誰が俺を嵌めたのか、それだけを調べてくれ。金なら、後で何とかする」
所長は俺のただならぬ様子に何かを察したのか、黙って頷いた。
数日後、一本の電話が鳴った。公衆電話からかけた、所長からの連絡だった。
「…西園寺さん。悪いことは言わん。もう、この件からは手を引け。あんたが勝てる相手じゃない。いや、そもそも土俵が違いすぎる」
「どういうことだ。誰なんだ、相手は」
「あんた、とんでもない相手の子供に手を出させたな…」
翌日、俺の元に届けられた調査報告書の薄いファイル。震える手でそれを開いた俺は、そこに書かれていた名前に、全身の血が凍りつくのを感じた。
『天野法律事務所 所長 天野誠司』
『大手総合商社 資源エネルギー部門部長 天野慧』
そして、今回の復讐劇の引き金となった人物。
『大学一年生 天野陽向』
天野…? どこかで聞いたことがある。そうだ、法曹界の重鎮、政財界にも太いパイプを持つと言われる、あの天野家。その一族か。
報告書は淡々と事実を綴っていた。息子・蓮が遊び半分で手を出した少女、月島咲良。彼女の婚約者が、天野誠司の次男、天野陽向だったこと。
そして、陽向が咲良の不貞行為を目撃し、深く傷ついたこと。その日を境に、天野家が一斉に動き出したこと。
父・誠司は法を武器に。兄・慧は経済と情報を武器に。妹はSNSを武器に。母は…報告書には母の行動は書かれていなかったが、きっと彼女もまた、見えない場所で静かに剣を振るっていたのだろう。
彼らは、自分たちの愛する家族を傷つけた者たちを、それぞれのフィールドで、静かに、合法的に、そして徹底的に叩き潰した。俺たちが築き上げてきたものが、彼らにとっては、子供が作った砂の城を足で蹴り飛ばす程度の、簡単な作業でしかなかったのだ。
「…そういう、ことか…」
乾いた笑いが漏れた。目の前が真っ暗になる。
そうだ。思い出した。蓮が手を出した少女の誕生日、蓮は高級ホテルのスイートを予約していた。その費用は俺が与えたクレジットカードで支払われていた。つまり、俺もまた、息子の罪の共犯者だったのだ。
俺たちが遊び半分で踏み荒らしたのは、ただの野原ではなかった。決して触れてはならない、神々の住まう聖域だったのだ。
「親父! いつまでぼさっとしてんだよ! 金はどうなったんだよ! 俺の人生、どうしてくれるんだ!」
部屋のドアが乱暴に開き、荒んだ顔の蓮が俺に掴みかかってきた。その愚かで、傲慢で、どうしようもなく浅はかな息子の顔を見て、俺は全てを悟った。
こいつをこんな化け物に育て上げたのは、誰でもない。この俺自身だ。金さえあれば何でも手に入ると、人を傷つけても金で解決できると、そう教えてきたのは俺自身だった。
因果応報。自業自得。全ての言葉が、ずしりと重く心にのしかかる。
俺は、息子の胸ぐらを掴む手を力なく振り払った。もう、怒りも湧いてこない。ただ、底なしの絶望と虚しさだけが、俺の心を支配していた。
崩れ落ちた砂の城の瓦礫の中で、俺は天を仰ぐ。そこには、どこまでも高く、どこまでも青い空が広がっているだけだった。あの家族にとっては、きっと今日の空も、昨日と同じように美しいのだろう。
俺たちの世界だけが、終わったのだ。たった一人の、心優しい青年を泣かせたという、それだけの罪で。




