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婚約破棄された僕が何もしなくても、僕を愛する最強の家族が元婚約者と間男を完全復讐してくれました  作者: ledled


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第四話 聖者のいない世界で、僕は前を向く

あの嵐のような出来事から、一年という月日が流れた。季節は再び巡り、キャンパスの木々は瑞々しい新緑の葉を風に揺らしている。


大学二年生になった陽向は、以前と変わらず穏やかな日々を送っていた。しかし、その内面には確かな変化が生まれていた。失恋がもたらした深い傷は、家族や親友の支えの中で、ゆっくりと、しかし確実に癒えていった。そして、その傷跡は彼を少しだけ強くした。ただ無条件に優しく受け入れるだけが、愛ではない。時には毅然と拒絶することも、自分と、そして自分を大切に思ってくれる人々を守るために必要なのだと、彼はあの経験を通して学んだのだ。


彼を溺愛する家族が、元婚約者と間男に対して何をしたのか。その全貌を陽向は知らない。ただ、兄や父が時折見せる厳しい表情や、母と妹の静かな決意から、何かが水面下で動いていることだけは感じ取っていた。それは、やり過ぎだったのかもしれない。聖人のように優しかった陽向が、決して望むことではなかったはずだ。それでも、彼らが自分を思う深い愛情の表れなのだと、今は感謝と共に受け止めることができた。自分は、このどうしようもなく優しい家族に守られて、生かされているのだと。


一方、陽向の世界から消えた二人の現実は、あまりにも過酷だった。


西園寺蓮は、大学を中退し、父親が作った莫大な借金の一部を背負うことになった。かつての華やかな生活は夢の跡。日雇いの肉体労働を転々とし、その日の稼ぎでようやく安酒とカップ麺を手に入れるのが精一杯の毎日だった。汗と泥にまみれ、疲れ切った顔で安アパートに帰るたび、彼は思い出す。自分の過ちが招いたこの現実を。しかし、後悔するには何もかもが遅すぎた。彼の心に残っているのは、虚しい自己嫌悪と、二度と戻れない過去への渇望だけだった。


月島咲良もまた、望んでいた華やかな大学生活とは無縁の世界にいた。結局、どの大学にも進学できず、勘当同然となった実家にも居場所はない。今は都会の片隅にある古いアパートで一人暮らしをしながら、天野家へ支払う慰謝料のために、昼も夜もアルバイトに追われる日々を送っていた。

休憩中に、何気なくスマホでSNSを開く。すると、タイムラインに陽向を囲む友人たちの楽しそうな写真が流れてくることがあった。友人たちに囲まれ、屈託なく穏やかに笑う陽向の姿。その写真を見るたびに、咲良の胸はナイフで抉られるように痛んだ。

「もしも、あの時、私が馬鹿な選択をしなければ…」

その言葉は、誰にも届くことなく、狭い部屋の冷たい空気に溶けて消えていく。自分が捨てたものが、どれほどかけがえのない宝物だったのか。その事実に気づいた時には、もう彼女の手は空っぽだった。後悔という名の重い十字架を、彼女は一生背負って生きていかねばならない。


ある穏やかな春の日の午後。陽向は親友の湊と、大学近くのお気に入りのカフェで談笑していた。法学部のゼミの話、湊が始めた新しいアルバイトの話。他愛のない会話が、心地よく時間を溶かしていく。


「それにしても陽向、最近なんか雰囲気変わったよな。前よりも、ちょっとだけ強くなったっていうか」

「そうかな? 自分ではあまり分からないけど」

「分かるって。前はさ、誰にでも優しすぎて、こっちが心配になるくらいだったけど、今はちゃんと芯がある感じがするぜ」


湊の言葉に、陽向は少し照れたように笑った。


その時だった。ふと、ガラス張りの窓の外に、見覚えのある姿を捉えた。

痩せて、流行りとは無縁のくたびれた服を着て、化粧気のない顔には深い疲労の色が浮かんでいる。あの頃の華やかさは見る影もない。月島咲良だった。

彼女もまた、カフェの中にいる陽向に気づいたようだった。一瞬、二人の視線が交錯する。

びくり、と咲良の肩が大きく震えた。その瞳には、恐怖と罪悪感、そしてどうしようもない羨望が入り混じった複雑な色が浮かんでいた。彼女は怯えるように目を逸らすと、何かから逃げるように背を向け、足早に雑踏の中へと消えていった。


ほんの数秒の出来事。しかし、陽向の心は、不思議なほど静かだった。

かつてあれほど愛し、そして憎んだはずの相手。だが、今の彼の心には、同情も、憎しみも、憐れみすらも湧いてこなかった。ただ、かつて自分の人生に深く関わった人間が、今、そこにいた。その事実だけが、風のように通り過ぎていった。


「…どうかしたか? 陽向」


陽向の視線の先を追っていた湊が、心配そうに声をかける。


「ううん、なんでもない」


陽向は穏やかに微笑み返し、テーブルの上のコーヒーカップを手に取った。温かい液体が、喉をゆっくりと潤していく。

その時、ポケットに入れていたスマートフォンが、ぶるりと短く震えた。取り出して画面を見ると、妹の莉子からのメッセージが表示されている。


『お兄ちゃん! 急だけど、今度の日曜、空いてる? お父さんもお兄ちゃんも久しぶりに休みが合ったから、みんなでお兄ちゃんの好きなハンバーグ、食べに行こうよ!』


その文面を見た瞬間、陽向の口元に、自然と柔らかな笑みが浮かんだ。

兄の慧からは『店の予約は任せろ』、母の美咲からは『デザートはママが作って持って行こうかしら』と、次々とメッセージが届く。相変わらず、少し過保護で、最高に温かい家族。


陽向は、莉子への返信画面を開いた。


『うん、楽しみにしてる』


短い言葉に、ありったけの感謝と愛情を込めて送信ボタンを押す。

聖人のように、すべてを許し、すべてを受け入れることなどできなくていい。自分を裏切った者たちがいなくなった世界で、自分を心から愛してくれる人々に囲まれて、笑い合える今がある。それだけで、十分すぎるほど幸せだった。


天野陽向の新しい日常は、優しい光に満ちて、これからも穏やかに続いていく。

もう、彼の心に影を落とす者は、どこにもいないのだから。

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