第一話 穏やかな日々の終わり、そして彼女の裏切り
四月も半ばを過ぎ、大学のキャンパスは新しい生活に胸を躍らせる学生たちの活気で満ちていた。その喧噪の中心から少し離れた中庭のベンチで、天野陽向は穏やかな春の日差しを浴びながら、法学の専門書に栞を挟んだ。
「おーい、陽向! 探したぞ」
快活な声と共に現れたのは、高校時代からの親友である相葉湊だった。経済学部の彼とは学部が違うため、こうして昼休みに会うのが日課になっている。
「湊、お疲れ様。講義、終わったのかい?」
「おう。それより陽向、今日の晩飯うちに来いよ。母さんが陽向の好きな唐揚げ作るってさ」
「本当かい? おばさんによろしく伝えておいてくれるかな。でも、ごめん。今日は咲良に頼まれてるものがあって、届けに行かないといけないんだ」
陽向が申し訳なさそうに眉を下げると、湊は「ちぇっ、また咲良ちゃんかよ」と口を尖らせながらも、すぐにカラリと笑った。
「相変わらずラブラブで何よりだぜ。まあ、あんな可愛い婚約者がいたら当然か」
月島咲良。隣の家に住む、物心ついた頃からの幼馴染。くるくると変わる表情が小動物のように愛らしく、長い髪を揺らして笑う姿は、陽の光を集めたように眩しい。ごく自然な流れで恋人になり、高校生の時に両家の両親が笑いながら決めた婚約は、今では二人の間で当たり前の未来になっていた。
彼女が高校を卒業したら、この春から僕が一人暮らしを始めたアパートで新婚生活を始める。その日のために、陽向は料理の腕を磨き、彼女の好きな花をベランダで育てていた。そのささやかで確かな幸せを、陽向は疑ったことなど一度もなかった。
「陽向は本当に咲良ちゃんのこと、大事にしてるよな。お前みたいな奴、他にいないぜ。聖人かよ」
「そんなことないよ。僕がしたいからしてるだけだ」
柔らかく微笑む陽向に、湊は「そういうとこだぞ」と呆れたように肩をすくめた。
陽向の優しさは、生まれつきのものだった。争いごとが嫌いで、誰かが傷つくのを見るのが何よりも苦手。その性格は、時に「お人好しすぎる」と心配されることもあったが、彼の周りにはいつも人が集まっていた。
しかし、その穏やかな日常に、ほんの少しだけ陰りが差していることを陽向は感じていた。
咲良との間に、見えない壁ができたような、そんな感覚。
きっかけは、彼女が高校三年生になり、本格的な受験シーズンに突入してからだった。
『ごめん、今日も予備校の自習室、閉まるまで残るから会えないや』
『電話? ごめんね、今ちょっと集中してて…。また後でかける!』
そう言って、後でかかってくることはほとんどない。LINEの返信もスタンプ一つで終わることが増え、週末に泊まりに来ることも「模試が近いから」という理由で断られるようになった。
大事な時期なんだ。僕が我慢しなくちゃ。彼女の夢を応援するのが、婚約者としての務めだ。
陽向はそう自分に言い聞かせ、寂しさを悟られないように、いつもと変わらない優しい言葉を返信し続けた。不安が胸をよぎるたびに、卒業したら毎日一緒にいられるのだからと、その思いを必死に打ち消した。
そして、運命の日がやってきた。四月二十日。咲良の十八歳の誕生日だ。
さすがに今日くらいは会えるだろうと思っていたが、咲良からの連絡は『友達がお祝いしてくれるから、夜は会えないかも。ごめんね!』という短いメッセージだけだった。
さすがに落胆の色を隠せなかったが、陽向はすぐに気持ちを切り替えた。それなら、僕が彼女を驚かせよう。
大学の講義を終えた陽向は、駅前のデパートへ向かった。咲良が雑誌を見て「可愛い」と呟いていた、小さな花のモチーフがついたネックレス。アルバイト代を貯めて、ようやく手に入れたものだ。ラッピングされた小さな箱をカバンに仕舞い、陽向は足早にスーパーへ向かう。彼女の好きなチーズケーキを焼いて、手料理をいくつか重箱に詰めて、家まで届けるサプライズ。きっと喜んでくれるはずだ。
キッチンに立ち、慣れた手つきで調理を進める。甘いケーキが焼ける匂いが部屋に満ちる頃には、陽向の心も浮き立つような期待感でいっぱいになっていた。
時計の針が午後七時を指す。友達とのお祝いも、そろそろ終わる頃だろうか。
陽向は丁寧に作り上げた料理とケーキ、そしてプレゼントを大きな紙袋に入れ、咲良の家へと向かった。隣家なのですぐに着く。いつものように、ポストの裏に隠されている合鍵を取り出した。驚かせたいから、インターホンは鳴らさない。
「お邪魔します…」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟き、静かにドアを開ける。しんと静まり返った玄関で靴を脱ごうとした陽向の動きが、ぴたりと止まった。
玄関のたたきに、見慣れない男物のスニーカーが乱雑に脱ぎ捨てられている。サイズからして、咲良のお父さんのものではない。
――誰か、来てるのかな。咲良のお兄さん…いや、お兄さんは海外出張中のはずだ。
胸に生まれた小さな染みが、じわりと広がっていくのを感じる。心臓が嫌な音を立てて脈打ち始めた。
リビングを覗くが、電気は消えている。静まり返った家の中、耳を澄ますと、微かに二階から話し声が聞こえてくる。
陽向は息を殺し、幽霊のように音を立てずに階段を上った。軋む床板に神経を使いながら、一歩、また一歩と咲良の部屋に近づいていく。
ドアの前に立った時、はっきりと声が聞こえた。甘く、蕩けるような、知らない男の声。
そして、それに答えるように響く、聞き慣れたはずの、しかし聞いたことのないほど甘く乱れた、婚約者の声。
「んっ…あ、蓮さん、すごい…っ。ねぇ、もっと…」
「はは、そんなに焦んなよ、咲良。いつもの彼氏とは違うだろ?」
「…うん、全然、違う…。陽向は、こんなことしてくれないもん…。優しすぎるだけで、つまんない…」
ガツン、と頭を鈍器で殴られたような衝撃。
手からプレゼントの入った紙袋が滑り落ちそうになるのを、指に爪が食い込むほど強く握りしめて耐える。
震える手で、ドアを数センチだけ、開いた。
隙間から見えた光景が、陽向の世界からすべての色彩と音を奪い去った。
ベッドの上で、見知らぬ男の逞しい腕に抱かれ、肌を重ねている咲良の姿。その顔には、陽向が一度も見たことのない、恍惚とした表情が浮かんでいた。男が咲良の髪を優しく撫で、彼女が気持ちよさそうに目を細める。それは、陽向が彼女にしてあげたいと、いつも思っていた仕草だった。
「…あ」
乾いた喉から、声にならない音が漏れる。
時間が止まったようだった。心臓が凍りつき、呼吸の仕方さえ忘れてしまった。足が床に縫い付けられたように動かない。ただ、目の前の光景を、網膜に焼き付けることしかできなかった。
僕の知っている咲良はどこにもいなかった。そこにいたのは、知らない男に身を委ねる、知らない女だった。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
ふと、我に返った陽向は、ゆっくりと後ずさり、音を立てないようにドアを閉めた。来た時よりもさらに慎重に階段を下り、自分の靴を履く。玄関のドアノブに手をかけた時、ふと、自分の手に握りしめられた紙袋が目に入った。彼女のために心を込めて作った料理。彼女の喜ぶ顔を思い浮かべながら選んだプレゼント。その全てが、今は滑稽で、惨めなゴミの塊にしか見えなかった。
陽向は、その紙袋をそっと玄関の隅に置くと、逃げるように月島家を飛び出した。
どうやって自宅アパートまで帰ったのか、覚えていない。気づけば、自分の部屋のドアの前に立っていた。鍵を開け、ふらふらとリビングへ入る。
そこには、週末だからと実家から遊びに来ていた家族が、談笑しながら陽向の帰りを待っていた。
「おかえり、陽向。どうしたの、その顔色…。幽霊でも見たみたいよ」
ソファから立ち上がった母、美咲が心配そうに陽向の顔を覗き込む。その優しい声を聞いた瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
「……あ…」
声を出そうとしても、喉がひきつって嗚咽に変わる。ぽろり、と頬を伝った一筋の涙を皮切りに、陽向の瞳からは堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「陽向!? どうしたんだ、何があった!」
異変を察した父の誠司が駆け寄り、兄の慧と妹の莉子も驚いた顔で陽向を取り囲む。
「お兄ちゃん、大丈夫…?」
莉子の不安げな声が耳に届く。陽向は、まるで幼い子供のようにその場に泣き崩れた。
家族に抱きしめられ、背中をさすられながら、陽向は途切れ途切れに、ぽつり、ぽつりと事の顛末を語り始めた。
「咲良が…僕の知らない男の人と…部屋で……僕、どうしたらいいのか、わからなくて…」
嗚咽に言葉が何度も遮られる。それでも、必死に伝えたかった。このどうしようもない絶望と悲しみを、誰かに聞いてほしかった。
陽向の話が終わると、リビングは水を打ったように静まり返った。誰もが、言葉を失っていた。ただ、優しく陽向を抱きしめる家族の腕の力だけが、少し強くなった。
そして、次の瞬間。
春の夜だというのに、リビングの空気は、まるで真冬のシベリアのように、氷点下まで凍てついた。
最初に口を開いたのは、エリート商社マンの兄、慧だった。いつも冷静沈着な彼の瞳に、見たこともないほど冷たい炎が揺らめいている。
「…そいつら、どこまで堕ちれば気が済むんだろうな」
その声は、絶対零度の静けさをまとっていた。
「お兄ちゃんを泣かせるなんて、絶対に許さない。咲良お姉ちゃんも、その男も、後悔させてあげる」
高校一年生の妹、莉子がスマホを手に取り、低い声で呟く。その愛らしい顔には、年相応のあどけなさは微塵もなかった。
「陽向。辛かったな。だが安心しろ。私の全てを懸けて、法の下、最大限の罰を奴らに与えよう」
敏腕弁護士である父、誠司が、いつもの温厚な父親の顔から、法廷に立つ冷徹な弁護士の顔へと変わっていた。
「陽向をこんなにも傷つけて…ただで済むなんて思わないでほしいわね」
最後に、ずっと陽向を抱きしめていた母、美咲が静かに言った。その微笑みからは、一切の温度が消え失せていた。
家族の異様な雰囲気に、陽向はハッと顔を上げた。
「やめて…! 僕のために、何もしないで…! お願いだから…!」
か細い声で、彼は懇願した。これ以上、誰も傷ついてほしくない。ただ、静かに忘れたい。それだけだった。
しかし、その悲痛な叫びは、陽向を愛してやまない家族の耳には届かなかった。むしろ、その優しさこそが、彼らの決意をより一層固くさせた。
世界で一番優しい陽向を、奈落の底に突き落とした者たちへ。
その代償を、骨の髄まで支払わせるために。
天野家による、静かで冷徹な復讐計画の幕が、静かに上がろうとしていた。




