4 ――被害の大きさ――
何かが崩れる音がした。何かが落ちた音がした。そう薄くは無いはずの扉の向こうで。今、背を向けたばかりの向こう側で。籠る事を知らぬ爆発音に似た音が、まるで床を打ち抜いたような凄まじい衝撃が、何を目的としている部屋かも分からぬこの扉を隔てたその向こうで、起こっていた。
そしてその衝撃で、そもそも存在しないものだと思っていた窓は、揺れたカーテンの隙間から灯かりを漏らした。分厚く黒いそれはそれから間も無く元の位置に戻り、光を遮断する。だがそれによって僅かな間であろうとも見えた空間内は、彼らの瞳に全てを焼き付けていた。
何がどこにあるのか、どの程度の距離であるのか――ただの一つの漏れも無く認識させ、故に、先頭に居るローラン・ハーヴェストの行動から、迷いを打ち消した。
引くべきか、攻めるべきか。他を退避させた後、個で扉を突き破るか……などと言う要らぬ考えはその瞬間、綺麗に白く染まりあがり、気がつくとロランは、鉄甲に包まれたその右腕を勢い良く振り上げていた。
間髪おかず振りぬかれた拳は一瞬にして虚空を貫く姿を、傍らの少年に見せた。が、その速度は彼の動体視力を遥かに上回り、拳が放たれたと理解した時には既に、左方向――扉は既に破壊されており、爆発音に似たソレが大気を振動させていた。
扉の破片が肌を叩く。上がる煙が喉を刺激し、扉の向こう側からあふれ出した激しい輝きが網膜を焼いた。その光が、扉を破壊した事によって繋がる向こう側の空間の、その壁が崩壊して取り入れた陽光なのだと気付くのには少しばかりの余裕と、落ち着きと、冷静さと、一度ばかりの深呼吸が必要だった。
――そして展開されていた二つの状況は、隔てる扉が失われた事によって、結合した。
確かに予想通りに抜けた床は、その下界に落ちたようだった。勇者候補生がその中で見たのは、長い槍を力なく床に伸ばし、その頭を長身の黒い影に掴まれ、宙に浮かんでいる光景だった。
しかし、その影は先ほどまで苦戦を強いていた者のソレではなかった。二本の角を頭に聳えさせる、人型でありながら異形の力を持つ魔族だった。その場では、唯一少年だけが見覚えの有る彼であり、皆その少年の妙なたじろぎを見て、空間内に立入る事を拱いていた。
「一体、何が……?」
テンメイは以前、魔王に襲われていたところを助けてくれた。その力はハイドに勝るとも劣らぬ、寒気が背筋を凍りつかせるほどの実力だった。だからある種の安心、あるいは信頼を無意識に寄せていたのだが――今の状況を見る限りでは、恐らく魔王を先に討ち破り、そしてソレに変わって我々を殲滅せんとしているように見えた。
好意的に捉えても、突然現れたシャロンに驚いて彼女を半殺しにしたとしか見えず、やはり彼の立場は絶対的であり決して覆る事の無い対立の位置、敵としてその場に居るのだとしか認識できなかった。
「ふむ、お仲間かァ。成る程、面倒にも誤解をしているという面を引っさげて居る。あぁ面倒だ。貴様等相手では、意識を伝える前に殺してしまう……いっその事、皆殺しにするか?」
逆光の中で影になるそれは、彼らに向かずに言葉を投げた。誰にともなく、響いた台詞には確かな嘆息交じりの感情と――その実力と同じ、怖いくらいの冷たさがあった。本当に言葉どおりに手を血に染めてしまいそうな重圧があった。
「随分と偉く、強くなったなテンメイ」
目が慣れたのか、緊張がほぐれたのか。レイドが真っ先に口を開き、そして皆を掻き分け先頭へ。そしてやがて空間内に入り込むと、鋭く彼の瞳を睨んだ。
瓦礫が部屋を埋め尽くし、元が何の部屋だったのかも分からない。だが微かに血の香りが鼻を掠めた。薄い白煙が充満し、喉と目が痛んだ。だが彼が行動した事によって、残る四人もそれに続くことが、ようやく動くことが出来ていた。
皆が部屋の中に入り込み並び終えると、テンメイは静かに、力なく四肢を垂らすシャロンを床に降ろし、そして丁寧に、慎重に寝かせてから、口角を引き上げた。
「数ある雑兵の一だった我だからなァ。しかしどちらにせよ、主も、好敵手も消えたこの世界には興味が失せた。この調子だと”次”が来るのも数百年以上先の事であろうし」
光になれた目は彼の表情を捉えた。テンメイは薄い笑みを浮かべているものの、その目には何の感情も宿っていなかった。言葉の通りに、全てに興味が失せたかのようなその瞳は、だがどこかに希望を持つように、ただ一点を見つめていた。
「最期に一戦――と、言いたいわけですか?」
唯一彼の、続くであろう言葉を繋げた聡い少年――であった男の、その瞳を。
「やはり類は友を呼ぶ。誰も彼もが好戦的で困ったものです。どうするのです? レイドさん」
「――そいつは、ハイドの忘れ形見、だ。殺すな。逝かすな……」
床の下から聞こえた気がした声は、力なく空気を静かに震わせた。小さく、しかし確かに聞こえる台詞は、シャロンのものだった。彼女は、恐らく全ての役割を終えて後は死を迎えるだけであろうテンメイを、ハイドの忘れ形見だと、そう口にしていた。
しかし、その意味をまともに理解できるものはその場に居らず、
「私が許さないぞ」
弱々しく立ち上がり、彼を背にして、まるで庇うように立ちはだかるシャロンに対して、レイドたちは皆一様に困惑の色に染まりあがっていた。
息が上がり、押せば倒れてしまいそうな彼女である。額には玉の汗を浮かばせて、数秒ごとによろよろと千鳥足を披露するシャロンは、それでも自分を犠牲するようにテンメイに背を向けていた。
その姿はまるで、信仰対象の失せた信者のようであり、また新たな偶像を妄信的に崇拝するソレのように見えた。その姿は痛々しく、とても直視できる代物ではなく、その虚ろな目は、いつもの彼女を彼らの脳内から払拭させた。
そして場は混沌と化して行く。全てが終わりに向かったかに見えた闘いは、闖入者と、勇者の信者によって加速度的に魔王戦での敗北よりもより残酷な方向へと、向かい始めていた。




