2 ――日常――
日常は移行する。何が起ころうとも起こらなくとも、日常を過ごしている者がいる限り日常は延々と終える事無く続くし、非日常へ向かったものは日常から切り離される形でその場から消えてゆく。
一年三組に属し、さらにその学級の代表たる役割を持つ彼女、アカツキシズクはそれを如実に実感していた。
周りから、特に親しくなりたいと思っていた人間がすべて消えた。まだ入学して三ヶ月も経ち切らない内に。これは割と、いや、大きな衝撃である。良くも悪くも身の回りから離れてゆくのは奇しくも自分から近づいた人間。まるで自分の責任であるように思われるのだが、ただの偶然に過ぎない。
「――礼」
彼女はそれを考えながら、ショートホームルームの終わりを決定する挨拶を吐き出した。途端にあたりはざわめき始め、早速荷物を背にして教室から出て行く者、友人等とこれからどこへ遊びに行くか相談するもの、ただ暇つぶしにたむろするもので溢れかえった。
「ねぇアカツキさん、今日は暇?」
「暇だったら遊ばない?」
「一緒にお茶しようよ」
いつのまに出来上がったのか、彼女は取り巻き陣営の中心に居た。正直、シズクは彼女等を好ましく思っていない。ただひとえに長いものには巻かれたがり、またそれを利用したいと強く願う心意気やその行動力には目を張るが、対象が自分であるというところがまた面倒だ。出来ればあまり、関わりたくは無い。
だからこれまで誘いを断り続けていた。いくら長いものだとは言え、ただの学級委員長だ。個人としての人格が気に入らなければさらに上の人間へと寄生するだろう。そう考えていた。たとえ孤立しても、生活には変わりが無い。
だが後者は予想通りでも、前者は全くの見当違いだった。彼女等は一ヶ月経とうともニケ月経過しようとも、一向に彼女から離れる気配がない上に、さらに積極的に遊びに、勉強に誘い出してきたのだ。
「ごめん、今日はちょっと用事があって……」
シズクは慣れたように断り、陣形からすり抜けた。いつもは委員会等の理由をでっちあげて切り抜けてきたが、今回は本当に用事がある。目的の場所は午後八時を過ぎれば門前払いだし、そもそも目的である対象は特別な処置で午後五時には追い返されてしまう。だから急がなければならない。
時刻は十一時五五分。夏休み前で、定期テスト後の日常。あと一週間もすれば夏休みに突入するであろう季節。学園は半日で授業課程を終え、生徒は解散となる。委員会の仕事があるもの、部活動、クラブの活動があるものは皆自由にそこへ向かう。所属する場所が無いモノは帰宅し、或いは友人等と遊ぶ。
彼女の場合は、友人の見舞いにその時間を当てる。それだけである。
教室を出る前に、背中に強烈な視線を受けた。取り巻きらの蔑む視線であろうか。あるいは――。
「きゃあっ」
背後に意識を集中しすぎたためか、目は前を向いている筈なのに目としての役割を果たしていなかった。景色を認識していなかった彼女は不注意により、回避し切れなかった通行人にぶつかってしまい、相手は悲鳴を上げながら、ひっくりかえり尻を廊下に叩きつけたらしく、盛大な音が廊下に響き渡った。
長い、薄桃色の髪を乱し、膝をそろえて横に倒すがその尻部分の下着がスカートから露になる女性。制服の色はベージュ。同じ冒険科の生徒で、ネクタイは赤――つまり一年生、同学年。その顔は輪郭が曖昧なくらい白い肌を持ち、強く閉じる長いまつげは鮮やかに見えた。整っている顔は痛みや驚きに歪んでも、どこか愛らしく見え――どうやら美少女らしい。彼女はそう判断する。
「ごめん、ぼーっとしてたから……」
シズクはそう弁解しながら手を差し伸べた。彼女の顔は記憶に無い所を考えると、特に目立った人間ではないのだろう。部活動や委員会に所属していても、影にはならないし、前面にも出られない人間。美貌を持つ故に嫉妬されるだろうが、その分護ってくれる人間も存在する、であろう。だがやはり、目立たないというのは気弱なのだろうか。
白と青のボーダー模様の下着をスカートで隠しながら、顔を瞬く間に紅潮させてシズクの手を借りて立ち上がる。手提げバッグを床から取り上げ、深く頭を下げて礼を言う。
「あ、ありがとうございますっ! ありがとうございますっ」
しかし礼を言われる筋合いは無い。自分がぶつかった所為で転んだのだから、彼女が礼を言うのは間違っている――そう考えるものの、この少女にそれを伝えても困惑と混乱を招くだけだ。
手を離して教室に、そして彼女に背を向ける。シズクはそのまま大またに廊下を進むと、
「あ、あの――」
――彼女は立ち上がり、愛想の良い笑みを”無愛想に”浮かべるシズクを背で送った後、自分が向かうべき場所を思い出し、その教室の学年と組が刻まれているプレートを見上げた。そして、やはりと頷く。
そして突入しようと考えるが、やはり怖い。見知らぬ組で、知り合いも居ない場所だ。友人は部活動に向かってしまったから今は完全な孤独である。そこで注目を受けるならまだしも、目的の人間が居なかったらどうしようか。そこまでのリスクは踏めるが、それを堪えられるかは定かではない。
だから、彼女は再び背を向ける少女へ向き直った。彼女なら、最悪であろうが面識がある。機嫌が悪そうだが、複数人の注目よりはまだマシだ。
「――なに、かしら?」
すると、引き攣った笑みで目を細めるシズクが、立ち止まり、彼女へと向いてくれた。そこでほっと胸を撫で下ろす。すぐにでも用件を伝えたいが、噛んでしまったりどもってしまっては相手が奇妙がって逃げてしまう。それはいけない。自分が堪えられない。
大きく深呼吸をする少女を見るシズクは、奇妙な繋がりを可視ていた。だがやはり、その桜色の髪を持つ少女は記憶に無いし、どう考えても初対面である。だから、恐らくこの繋がりは直接自分に繋がっているわけではないのだ。恐らく自分の友人――ショウか、ローラン・ハーヴェスト。
しかし、一ヶ月以上ロランは学園に居ないし、ショウは二週間ほど留守にしている。とすれば、やはり後者のほうが確率が高いが、ロランの方が人を引き寄せやすいのは確か。別段、どちらなのか、という点は問題ではないので、彼女はそれ以上の疑問は無視して、ようやく届いた言葉を脳に刻んだ。
「しょ、ショウさんは――今、どちらへ居るのでしょうか……?」
この場に居れば、彼は激昂して、恐らく自分の良心を全て踏みにじってでも彼女へ背を向けこの場を後にしたことだろう。だが、その呼び方をするということは、相応の仲の人間なのだろうか。
少なくとも、彼は最近本名で呼ばれた覚えは無い。このニックネームは気づくと浸透していたのだ。由来は知らないが、彼は大層、これを嫌っていたことだけは覚えている。
「あぁ、実は……」
彼女は一体何者なのだろうか。それがシズクの口をつぐませた。
少年は最近、自ら進んで戦線に立つ。前線には行かないものの、風紀委員に居なくてはならない人間の一人として、確かな存在となりつつある。だから入院しているだとか、魔族の群れと交戦しただとかいう事実は学園側で隠蔽されていたのだ。生徒会のコネを使用し、友人と言うコネを使い彼の入院している病棟、病室は知れたが、無論、それを周りに教えるなどと言う事は出来ない。
学園が事実を隠すと言う事は、隠す理由があると言う事。魔族の群れと交戦だなんて事実は当たり前のように生徒や都市民に混乱を与えるだろう。たとえ、魔族、魔物が滅んだという事実を伝えようとも。
だから、面倒を増やさないようにそうしている。もしかすると、その交戦と言う事実の中にさらに深い出来事があったのかもしれない。背後の帝國が、隠せと命令しているのかもしれない。だから、彼女がそれを隠す事こそすれ、見ず知らずの、たとえ少年の知り合いであろう少女にも、それを教える事をしてはならない。
そして、少女はシズクのそんな態度から全てを理解したのだろうか。不意に紅潮する顔は冷静さを取り戻し、
「あの、具合が悪いのなら、何も言わなくても、良いです。ですが、もしよろしかったら――伝えておいて貰えないでしょうか?」
「何を?」
「多分、通じると思いますが――お姉ちゃんが『助けてくれてありがとう』って言っていた、と」
シズクは、彼女が何を言いたいのかよくわからなかった。用件は分かる。だが、その用件の内容が理解できなかったのだ。彼が何をして、彼女の姉を助けたのか。それがどの状況で、いつの話なのか。ただでは察せ無い、というのは、シズクが少年の情報を知らせようとしない仕返しなのだろうか。
「私も……私は――、い、いえ、なんでもないです……さ、さようならっ」
再び顔を真赤に染める少女は、言葉に言い淀んだあと、すぐさま振り返りその場を後にした。廊下にはまだ人が多いので、多くの男子生徒は乱れる衣服から覗く下着を盗み見ようと、驚きつつも振り返るが、思わぬ俊足を見せる少女はいつのまにか、気がつくと遥かに身体を小さくしていて、階段を降りたのか、不意に身体は視界から消えた。
シズクはそんな不思議な少女に首を傾げながら――。
「――と、言うわけだけど。何か心当たりがあるの?」
魔力的障害により額に濡れたタオルを乗せて、気力なく薄く目を開く少年へと言い聞かせた。そして疑問を被せると、彼は短く唸って、
「多分、魔族襲来の時に襲われてた人だと思う……。男を転ばせて、さらに足を刺して頭を蹴り飛ばした時の、自分がしたという実感が衝撃的過ぎて忘れてたけど、多分――心当たりといったら、それくらいしかいないし」
「フラグビンビンじゃねーか! クソッ! クソッ! 舐めやがって! なぁスロープ! お姉さんてお前っ! ……夜食は親子丼かな」
「病院食は朝昼晩の三食までしか出ないで御座るよ」
つい先日目を覚ましたスロープは、念のために三日入院し、その様子次第で退院をする予定である。そして少年も症状の回復次第、というもので――目に見えて分かる怪我をしているヤマモトが最も長い入院生活を余儀なくされている。故の卑屈ぶりなのだ。
「でもよ、ショウ。真面目な話、少なくとも今までレベル五っつー、悪い意味での有名さを誇ってたんだ。本名がショウになっても、だ」
「なってねーですよ」
「だが、今回の話が広まってみろ。お前は少なくとも一般人レベルからのし上がれる。んで、お前が魔族に立ち向かおうと提案した事。そして今回お前が居なかったら為すすべもなく都市が壊滅していた事。お前が居たから俺たちが志半ばで果てずに済んだ事。それを知らせれば、レベル関係無しに、純粋にお前を尊敬してくる人間が出てくるだろう。そこで、レベルと言う概念は半ば崩壊する。実力はレベルでは測れない、という、良い意味でな」
なぜか自分以上に誇る彼は、先ほどまでのセクハラ発言はどこへやら、少年を励ますような、あるいは大儲けに誘うように言葉を紡いだ。相槌に返した否定の台詞も聞こえていないような彼に、少年はただ溜息をはくことしか出来ない。
今回勝てて、生き残れたのは自分のおかげ――もあるだろうが、何よりも、ヤマモトロクロク、シップ=スロープ、スズ・スター、自分、この中で誰かが欠ければ生きて帰れなかっただろう。ヤマモトは魔族の注意を引き、スズ・スターは敵の度肝を抜き、スロープが止めを刺す。少年は能力を暴き、弱点を見透かし、攻撃の矛先を自分に向ける。これがなければ、今こうやって魔力的障害に苦しむ事もなかったのだ。
それをあたかも、自分のおかげ、とはやし立てられるのは嬉しい反面、納得が行かない。まるで彼らに正当な評価がなされていないように思えてしまうのだ。
「別に良いんですよ。目立ちたくって、尊敬されたくって行動したわけじゃあないですから。そうしろと囁いたんですよ、僕のゴーストが」
「ボクも誘ってくれれば良かったのに」
少年が口に下途端、不意に聞き覚えの有るような、最早懐かしく感じ始める声が聞こえた。その場全員の背に戦慄が走る。そして恐る恐る振り返ると、出入り口の開けっ放しの扉の真ん中に、仁王立ちする緑色の頭を持つ男が見えた。
「今回は振り回されて大怪我して、大変だったわね」
同時刻、女性患者棟の某室では、スズ・スターに面会に来た少女、ユーリヤ・ピートが綺麗に切り分けたリンゴを、彼女の口に差し出しながらそう呟いた。
スズ・スターは頬張ったリンゴをしゃりしゃりと咀嚼し、溢れる果汁と果肉を一切合財の見込んでから、ようやく口を開く。その頃ユーリヤは、そんな彼女の所作に微笑んでいた。
「別に。大変だけど不運だとか、そういうわけじゃあない。寧ろ暴れまわって自分の実力が知れたから丁度良いくらいさ」
「でも手、使えないじゃない」
「その気になればスプーンでもなんでも使えるし、ズボンも下ろせる。問題は無い。ただ細菌を侵入させないための処置よ」
「男女、棟が別々なのが誤算ってトコかしら」
悪戯っぽくユーリヤが言うと、突然彼女はそっぽを向いた。横顔から見える頬は赤みが増してゆくのが見えて、慌てて否定したいのだが言葉が出てこないらしく、胸が呼吸で小刻みに震えているのが見えた。
「何を言っているのか理解に苦しむな。あたしの知らないところで脳を移植したのか?」
自力で表情から色を払拭させるスズは彼女へと向き直る。そんなスズが可笑しいのか、ユーリヤは口元を押さえてクスクスと笑い始めた。
随分と上機嫌だなと、スズは感想を持つ。いつもならカリカリとしている彼女は今回もどうせダメだしをしてくるのだろうと思っていたのだが、どんな心境の変化か、見舞いらしい見舞いを行い始めている。たしかにこれは助かるのだが、かえって不気味だし、退院したらこれのお返しに、と何かを要求されると思うと背筋が凍る。手足が痺れる。
そして直ぐに、口の中に自然な、果実の甘さが広がった。
スズ・スターは事務的にそれを咀嚼し、飲み下す。伸ばした足の、腿に乗せる包帯に巻かれた両手に視線を落としながら、息を吐いた。吐息はリンゴの甘い香りに変わる。
「生死を共にした中なんだし、もう少し素直になって、頼ってもいいんじゃないの?」
何かを意図して紡ぐ言葉は、一々胸に、針のように突き刺さる。心臓を貫き背骨を砕く言葉は、図らずして彼女の心から、根拠不明の自信を湧かせた。
今なら何でも出来る気がする。だが怪我が治る頃にはその気持ちも失せてしまうのだろう。これは酷く惜しい。やる気があるときにやっておかねばならない気がするのに、今が出来ない状況と言うのは少しばかり、勿体無い。だが仕方が無いから……という安心感もあるので、正直スズ・スターは自分自身複雑な心境にあった。
「何が言いたいんだ」
だから彼女は、そう言って逃れようとする。だがかえって止めを刺すような結果になることは十分承知している。
自分が今欲しいのは、精神的に余裕があるものの、逃げられない状況。これから何があるか分かったものではないので、早くその境地を迎え慣れてしまわねばならない。
「これから何があるのかわからないんだから、告白しておけば? っていう話」
「――というか、好いて好かれて恋あられ、とか言うものは然程興味は無い。マジな話でだ。奴のことは単なる仲間だし、これからもその関係で十分だし、それが良いと思ってる」
「本当に?」
あぁ、と彼女は頷いた。それは本心である。恋だなんてものに明け暮れている暇は無いし、それを感じた事が無い。心をそこまで突き動かされた経験が無く、今は精神は正常なのだからそれはないだろう。ただ稀に、特定の個人を見直したりする事はあるが、それは純粋な尊敬だとかに過ぎない。
へぇ、とユーリヤがパイプ椅子の上で仰け反った。これは何かを疑っている顔である。信用はしていないが、相手が否定しているので仕方なく納得したという体を見せている。そんな表情であった。
リンゴの咀嚼音だけが、一人部屋の病室に響く。気まずいような空気が蔓延してきたところで、扉をノックする音が聞こえた。返事をすると入ってくるのは、看護婦だった。
「それじゃ、そろそろ潮時かな」
ユーリヤはどこか機嫌良さそうに言うと、立ち上がり、制服のスカートの尻をパタパタと叩いて皺を伸ばし、椅子を畳んで壁に立てかけた。一方で、看護婦は包帯交換の準備を開始する。ユーリヤは片手を上げて別れの挨拶代わりにウインクをすると、返事を貰う暇なく、その場から退散していった。
スズ・スターは深く溜息を吐きながら、しかしこれで随分と元気付けられ、気が晴れたなと、確かな充実感を得ていた。
――包帯から露になるその手は、既に五割以上の皮膚を元に戻していた。
「この様子なら、あと一、二週間で元にもどるわねぇ。少し、穴が空いて空気が入った薄手のゴム手袋みたいになるけど」
「それは悪い知らせか?」
「良い知らせよ。勿論、元に戻す医療技術くらいはあるからね」
彼女は軽く笑うと、手馴れた様子で包帯を巻き始めた。見る見るうちにグロテスクな手は白い包帯の塊へと変貌して行き、スズ・スターはそれを見ながら、これからはどうなるのか。それだけが心配で、それを考えていた。
ふと見る外界は、病室と違い酷く、蒸し暑そうだった。




