7 ――撃退記念日――
ノートリアス、ユーリヤ・ピートが焦らず急がずだが小走りで都市に脅威をもたらす根源へと向かっている最中。
不意に足元に矢文が空気を切り裂き突き刺さった。
ユーリヤはソレに対して短い悲鳴を上げるが、ノートリアスは飽くまで落ち着いた態度でソレを拾い上げる。
矢文で連絡を寄越すのは、彼が知る限り一人、正確には一組しか居ない。無論、それは諜報員の少年少女のことである。だから彼は、何か進展があったのかと辺りを見渡し、いつもより静か過ぎる街の中に彼らの姿を探しながら、矢から手紙を外した。
傍らにようやくユーリヤが隣へやってくる。彼はソレに合わせて手紙を開いた。
『戦術的撤退推奨。都市伝説現れり』
紙一杯に読みやすく達筆に書かれたソレは簡潔で分かりやすい内容だった。
――――都市伝説、それは些細な規模から大きすぎる範囲の人間が命の危機を感じた際に現れると言われている。全身を衣服や包帯で包み顔を隠すそれは人間であるのかすら判別付かないのだが、その実力は圧倒的だと言われている。
そんな都市伝説が誕生してから五○年、その噂は絶える事が無く、だが大々的になるわけでもなく、ただ細々と続いていたのだ。そうした理由は、そうなった原因は、今まで力強く自分の力で生きてきた人間が、簡単に他の力に頼って生きていかぬよう、各都市、各国家の王たる存在がその存在を否定し続けた為である。
そうすれば逆に噂は加速度的に全世界へと広まるのではないか、という一つの危惧があったのだが、同時に民の中に紛れ込ませた所謂"サクラ"が声高らかに同意を叫ぶので皆その勢いに飲み込まれて――――ソレはずっとその状態を維持し続けた。
だが魔王復活を期に、ワラをもすがる気持ちでその噂を胸に抱く人間が増えてきて――――。
「期待に答えたのか、自分の目的……或いは運命を貫いているのか……。一つの説に、"ソレ"は魔族だと言われているけど、魔族に対峙し魔王に歯向かう魔族ってのは知ってる?」
「いえ」
彼女は組み立てた杖を素早く手早く即座に分解し、腰に下げたポーチに突っ込み立ち止まる。
「でもどちらにせよ状況は此方に微笑んだわ。私達が向かう必要は無いし、少しでも離れないと、巻き込まれてしまうわね」
「なら君は逃げると良い。ボクは彼の顔を拝んでくるから」
頬に数滴、冷たい何かが落ちたと思うと直ぐに、次いで辺りの地面が濡れ始めた。彼がそれは雨だと気付いた時には既に、水滴は大粒となって全身を濡らし始めていた。
この雨脚から見て一時間もしないで止む通り雨だろう。彼は考えながらユーリヤの返答も聞かずに前へ進み、その右手中指に銀光りする指輪を鈍く光らせながら、緑色の髪を掻き揚げた。
そうすると間も無く、背後を追って迫る足音が耳に届いて、
「自殺願望は無意識によって構築されるのね。勉強になるわ」
皮肉っぽい直球の悪口が隣にやってくる少女から放たれ、思わず胸に突き刺さった。
「死なないし、腐っても三学年で、実力は君に近いと覚えているよ。相手に気付かれず、また気付かれても逃げ切る心得ぐらいは持っているつもりだけど」
「そんな事を言う自称中級者が一番痛くて死に易いのよ。近いといっても四五でしょ? それも、逃げ足だとか力強さ、耐久力で判断されたんじゃなくて、その思考回路や適性判断によってじゃない!」
「そして君はボクに無い種類の実力で五○を持っている。丁度いいじゃないか」
「で、でも……そう、相手はケロベロスとは違うのよ?」
地面には水が溜まり、足音が水を弾く音に変わる。
言い合っても必ず横に並ぶ彼女はそこで初めて、足を止めた。
心境の変化、などではなく彼を心配する心が限界地に到達したのだ。相手の言葉に根拠や理屈が無くとも、彼女はそんな妙に自信ありげな台詞を言い負かす事が出来ない。だからそうして、力任せに止めようとした。
先ほど彼は彼女を置いて行こうとした。そんな事実があっても、彼は確実に止まってくれるという、儚い、たった一つの根拠の無い自信が彼女にはあったのだ。
一歩、二歩。しかし彼は立ち止まることはおろか振り向く事も、言葉を返すこともしない。
不安に胸が呼吸を乱す。
「同じだよ」
そんな中で言葉は不意に耳へと――――否、激しくなり雨粒が地面に叩きつけられる音が全てを掻き消す中で、言葉なんてひ弱なモノが、届くはずが無い。
彼女は即座に、それが念波だと気がついた。本来ならば都市内での魔術の使用は勿論魔力変換も禁止されているのだから、それだと意識するのに少しばかりの時間が必要だった。
『違わないわよ! アンタ頭脳が間抜けね? だって魔獣は魔界ではペットみたいな――――』
魔界なんてものは知らない。あるかも分からないが、あるとしたら相対的に考えて天界なんて場所もあるのだろうか。
言葉を強く意識する一方で、そんな戯言が脳裏を過ぎった。
『立ちふさがる敵には変わりが無い。魔物だから、魔族だから敵だという考えは古いよ。人間でも、魔族よりもっと邪悪な存在は居る。それを忘れてもらっては困るよ。ユーリヤ・ピートさん』
冷徹とも言える言葉は、生温い雨よりも確かな冷気で彼女の胸を貫いた。
戯れの思考すらも全てが掻き消されて、思わず彼女は言葉に詰まる。頭の中が、一瞬真っ白になった。
『ボクの前に立ちふさがるというのなら、君にも容赦はしないつもりさ、ユーリ。最も、君が言うとおり、ボクは戦闘向きじゃあないから、君が全力で相手をしてくれれば、望みどおりボクを止める事は可能だろうけどね』
彼はそこで初めて足を止めた。
彼女はそれに、淡い期待を持つ。冗談だと笑ってくれるのを、そう言って戻ってきてくれるのを。振り返る前提の、自分に都合の良い思考は彼女を蝕んだ。
だがそれは脆く崩れ去る。彼は振り返らず最後に一言、念波で囁いたのだ。
『先に行っている』
そう言った彼の台詞は、先ほどの言葉が冗談だとか嘘だとか、そんな事を意味しているのではない。さっき放たれた言葉は紛いも無い本心。ではなぜ彼女を受け入れるような言葉を言ったのかと言えば――――本当に止めたいのなら追って来い、或いは彼女がそれでも付いてきてくれる。そんな今まで通りの日常を促すためだったのだ。
ノートリアスはそれを口にした途端にその姿を、彼女から十数歩離れた位置から消し去った。瞬時に薄くなる彼の影は、そうして粒子も残さずに消えてなくなった。
――――生温いはずの雨はいつしか身体の芯までを冷やしていた。
「馬鹿な男……」
彼女は紫色の変色する唇を噛み締めて、水を十分に含んだ栗色の髪を掻き分け、そうしてより強くなり視界を遮る雨の中、彼女はノートリアスと同じ手段を用いてその場から移動した。
理解不能。
一番最初に思い浮かんだ言葉はそれだった。
そして次が、"一瞬意識を失った事を勘付かれてはならない"だった。
――――強くなる一方の雨は、巻き起こった煙を瞬く間に消し去った。彼は迷惑だと胸の中で吐き捨てた。
拒絶者は自身の身体が破壊した、分厚い壁だった瓦礫の中で思考を全回転にして正体不明の敵を推察し始める。
だというのに、頭がぼーっとして、まるで何者かに頭部を掴まれて持ち上げられ居るかのような感覚に襲われる。重い瓦礫にサンドイッチされているはずなのに、身体は今にも浮き上がりそうだと彼は感じていた。
しかし考えは通常通りにまとまるのだ。不思議で初めてな感覚に、彼は自分の力が全力以上に出せているような認識を持った。
雨は瓦礫を、壁を濡らす。だが身体はその影になっているらしく濡れる気配は一切無かった。
その中で――――その、人間の衣服を着る魔族の姿が、遠方から近づいてくるのが見えた。
思わず恐怖が心の中で躍り出た。心臓がきゅっと締まりあがり、痛みが麻痺した顔を片手で押さえ、また片手で瓦礫の中から這い出した。
――――逃げるのではない。戦略的撤退でもない。立ち向かうのだ。一発殴られた。ならば一発殴り返さねばならない。顔も見知らぬ名も知らぬ異形の、本来対立するはずが無い魔族に、ただの雑魚だと認識されたくなど無いのだ。
「おい、もうくたばっちまったのか?」
服が水を吸って重く動きにくそうな彼は声を上げる。既に豪雨たりえているのに声を通すとは、随分と大きな声であると彼は思った。
「貴様のような貧弱魔族と同等な扱いをするなッ!」
怒りか恐怖か、拳が震えた。
たった一度、奴の攻撃を拒絶すれば一撃入る。攻撃だけを巻き戻すのではなく、攻撃以前の状態に身体の状況を戻すわけであるから、攻撃したと認識する頭と、実際攻撃できていない身体でズレが生じる。故に大きな隙が出る。
今までと同じで至極完璧だ。
彼は自画自賛もそこそこに、大きく息を吸って駆け出した。雨などはその速度に弾かれているらしく、肌は濡れる兆しを見せることは無く――――だが敵魔族はまるで眼中に無いのか、構える仕草も立ち止まり受け入れる体勢も取らなかった。
一瞬にして肉薄する。
距離は既に拳が届く距離。能力の発動段階は既に行動を巻き戻す直前の状態で渦巻いているのに――――ソイツは攻撃をする事も無く、
「嘗めるなァッ!」
怒りが沸点を超えて恐怖を迫害した。拳が激動の鉄拳たる威力を持ちその胸を、容易に貫いた。
「なっ!?」
それは事実簡単すぎて、そして余りにも衝撃が無さ過ぎた。
だからまず、そんな間抜けな声が出た。嬉しさや楽しさよりも、本当にコレで良いのか――――否、本当にコレは事実なのかといった疑問が、脳を占めていた。
攻撃した感覚が矛盾点が無いほどに無く、そして腕は魔族の腹に飲み込まれ、そして肩、やがて全身をその腹に喰われたかと思うと――――気がつくと、その視界は自身が作った血の海へと変わっていた。
即ちソレは魔族の背後。だとするとこれは奴の能力か? だとしたら驚いている暇は無い。今すぐに能力を発動しなければ――――。
思考は鋭く煌めいた。今の彼はどんな時よりも輝いて、思考も豊かに素早く動き、そうして彼は振り向くのだが……。
「気絶してんのかねぇ」
気だるそうに呟くソレは、先ほどと同じ態度を変える事が無かった。
――――どういう事だ? つまり……一体何が起こったのだ。
他者の干渉? 自分の新たな能力? この状況でそれが出来るとしたら後者が一番有力であるのに、そもそも能力が発動した気配は無い。
ありのままに今起こったことを説明すると――――駆け出し攻撃を加えたと思ったら、気がつくと対象の背後に居た。何が起こっているのかわからなかった。頭がどうにかなりそうだった。超スピードや特殊能力だとか、そんなチャチなモノじゃ断じてなかった。もっと恐ろしいものの片鱗を、彼は味わったのだ。
思考が停止していると、敵の魔族は既に崩壊した壁へと到着していた。まるで時でも跳んだような感覚を、彼はついでに体感した。
未だそこに拒絶者の姿があると思っているのだろうか。彼は侮蔑し、再びその背後を襲おうと駆け出す――――その準備段階に入った瞬間。
「死んでる……」
その呟きが頭を吹き飛ばした――――そんな風に、身体が突然重くなり始めた気がした。
軽くて今にも浮かび上がりそうだった身体は早くも、重さに耐え切れずに地面に沈み駆ける。突然、顔面に凄まじい痛みが走る。その痛みが強すぎて、痛みたる痛みが何なのか、概念が吹き飛んだ。
視界が歪む。
この拒絶者が死んだだと? 貴様の戯れに付き合っている暇は無い――――叫ぼうとするも声は虚空に消えてなくなった。そして直ぐに、喉が遮蔽したように、言葉を出す事が出来なくなった。
前へ進む足が重くなる。そしてやがて、進む事すらままならなくなって――――。
――――理解不能。
彼はその言葉を最後に、意識をぷつりと、テレビを消すように消失させた。
頭の回転が良い彼はその為に理解が早かった。
だから少年の一言で全てを理解しその危険性を見抜き排除しようとしたし――――信じずとも、ハイドの一言で心の奥底では納得してしまったのだ。故に彼は自分が死んだと理解し、消滅した。
最も、彼がほんの数分間そんな苦悩があったことなど、誰も知らない。




