1 ――これからのこと――
「あ、あのっ」
朝――――日が昇り学生たちが行動を開始し始める時間。
少年は暗く落ち込み、辺りの雰囲気さえも飲み込むような陰気さを放ちながら、昇降口にて外履きから特に指定されていない上履きへと履き替えている最中であった。
そんな中、視界の脇から飛び込んできた少女は勇気を振り絞ったような声を上げていた。
少年は、彼女は僕なんかに一体何の用だろうかと、そんな些細なネガティブシンキングを炸裂する余地も無い頭で彼女を認識してから、靴を履き替え、それから軽く身だしなみを整えてから――――酷く緩慢で、無関心な無表情で向き直る。
頬を紅潮させ、桜色の髪をする彼女は手提げカバンを胸に抱え、激しく掻き鳴る鼓動を抑える風な体勢で、そしてその赤い顔を恥かし気に俯かせていた。
ああ――――どうせローラン・ハーヴェストに用事がある彼女なのだろう。
しかし"当分"戻ってこない事をどう説明してやろうか。恐らく彼女は淡い恋心を秘める一女子である。にわかな期待を持たせるのは酷と言う物だろう。
「何の用?」
少年は赤いネクタイの結び目を軽く握りながら、同色の彼女のリボンを、同色のブレザーを視界内で確認しながら彼女の目を見据えて聞いた。
彼女はそうすると、何か言葉を発するように小さく口を開いてから、また閉じかけて――――それからようやく、彼女は声を上げた。
「あ、あのっ――――は、ハーヴェストさんは、今日もお休み、なんですか……?」
彼女は途切れ途切れに、息苦しそうにも聞こえる言葉を何とか繋げて問いを投げた。
少年はやはり、碌な休息を頭に与えていない所為であろうか、その時間を使っても納得できる言い訳が思いつかず、苦しい表情をしながら頷くしかなかった。
「あ、うん。何か用事があるみたいで……、それじゃ」
今の状況で人波の中は危険と判断して早めの登校をしたわけだが、運悪く彼女に絡まれてしまった。がらがらの昇降口も数分待てば人で埋め尽くされるだろう。
そして、何よりも逃げたかった。
精神が妙に痛めつけられている少年はそんな理由で、それだけ言って足早に、気の弱そうな彼女に背を向けて昇降口を後に、そして階段を駆け上がるような足取りで上って行った。
残された少女は困ったような笑顔を薄く浮かべたまま、前髪を指に巻いて、開け放してある昇降口から入ってくる風に、その腰まで長い髪をなびかせてから、自分のクラスへと、少年とは異なり落ち着いた様子で階段を上がった。
――――やがて少年が呼吸を荒々しく階段を上り終え、何故、傍観者極まりないこの自分が被害者ぶって悲劇のヒーローを演じているのか自分でも理解できないと心の中で喚いていた。
彼の歩調はそれでも体調体力に合わせて無意識の内に緩やかなモノと変わって、その足が教室の前で止まる頃にはすっかり呼吸も整っていた。
そして――――まばらに生徒が席に座る中、一人だけ胸に抹茶色のネクタイを締めた男が、スライド式の扉へと身体を向けて、窓際の席に座っているのを、扉ののぞき窓から彼は見た。
彼は少年を見るなり片手を挙げた挨拶をして――――。
「本当に君はボクが思った通りの時間に来てくれるねぇ」
一瞬にしてその姿は窓際の椅子から、その教室から消えてなくなって――――声は、その強い気配は直後、背後から現れた。
しかし少年は落ち着いた様子で振り返り、喉から言葉を搾り出す。
「一年のクラスで何やってるんですか。上級生の存在はただそれだけで下級生にとっての威圧になるんですから、やめてくださいよ」
さらに彼が、風紀委員の副会長である事が有名なのだからなおさらである。クラスの生徒等は静まり返り、まるで空気と化すほど気を使っているのに、彼――――ノートリアスはそんな事はどうでも良さそうだった。
なんて風紀委員とは全く逆で、風紀を取り締まるべき人間に取り締まられるべき人間であろうか。少年は心底思うと、ノートリアスは振り返った彼に軽く肩をすくめてから言葉を返した。
「ユーリヤにも同じ事を言われた。君と会ってからボクは叱られっ放しだよ」
言いながら彼は少年の肩に軽く手を置いて――――。
「――――っ!?」
気がつくと、少年はノートリアスを前にしていたはずなのに、その視線の先には無数の建物が規則正しく、だが芸術的に並ぶ景色が広がっていた。
風が伸びすぎた前髪をそよがせる。踏みしめる足元が、廊下とは違う事に気が行って、そして空から降り注ぐ太陽光は少しばかり、彼の気分を心地よくしていた。
眼を見開いて何が起こったかを考えて、直ぐ分かりそうなことに、彼は数十秒思考を費やし、答えを口にした。
「瞬間移動ですか……、確か緊急時以外での魔法の使用は原則として禁止とされていますが」
其処は自由学園冒険科のホームルーム棟の屋上だった。
「ははっ、生真面目だねぇ。知ってる? 取り締まられる側に見られなければ、違反も何も無いんだよ」
一理あるかもしれないが、少なくとも口にして欲しくはない台詞である。
確かに――――と。少年はそんな彼の言葉に気が抜けて、大きく息を吐いた。
彼の言葉を極大解釈すれば、もしどこで何が起ころうとも自分にとっては起こっていないことと同等。つまり世界の半分が支配されても、支配されていない半分に自分が居れば、究極的に世界は平和、という事になるのだろう。
ローラン・ハーヴェストは自分の目の前に居た際には存在していたが、今この瞬間は、この世界から居ないという意味で捉える事も出来る。ならば、彼と過ごしてきたこの二ヶ月ばかりは幻想か? 違うだろう。
だがどちらにせよ、彼は少年を落ち込ませるために、わざわざ生活に支障を与えるために勇者を告げた訳ではない。ただ一言、何かが欲しかったのだろう。
頑張れだとか、死ぬな、だとか。逃げろ、行くな、などと言ったマイナス効果が及ぶ台詞ではなく、極力顔を上げて前を向けるような言葉が。
しかし少年は、最後までそれを言う事も出来ず、またそれが言うべき言葉だと理解する事も出来ず――――ただ利口ぶって、彼の境遇だとか世界の選択だとか、阿呆じみた事ばかりに思考を膨らませていたのだ。
ロランが可哀想? ふざけるのも大概にして欲しい。可哀想なのはこの頭ではないか――――。
俯いて心の苦痛を噛み締める少年を見て、ノートリアスは軽く頭を掻いた。困ったなと、誰もが見て取れる表情をした後、置きっぱなしだった手を肩から離して、口を開く。
「今、君が出来る事は後悔だけかな」
不意に胸がどくんと大きく弾んだ。
不安だろうか、緊張だろうか――――なにか確信めいたものが心に突き刺さった気がした。
少年はそれが何なのか、しっかりと理解できた上で――――今感じていた苦しみだとか悲しみだとか、後悔だとかを全て脳内から吹き飛ばして、驚いたような、何かに気付いた風な顔で、彼を見上げた。
ノートリアスは、聡いなと、ただ一言心中で漏らして笑顔を見せる。少年はそれから首を振って、喉を鳴らした。
「それは、違います。ですが何をすべきか、何が出来るのかはわかりません。ノートリアスさんが何をどこまで知っているかすらもわかりません」
そう思うと、目の前にしている人間の表情やらで感情が読み取れるが、それが本音であるか、また本心では何が言いたいのか、読み取れないのは不便である。
目の前に人はいるのに、その"居る"という事以外何も分からないのは、不思議なことではないか。少年は思った。
「だから、少なくとも強くなる努力と、知恵を付けたい……。その中で、何かを、僕の求める道を探して行こうと思います」
そうだ。まずは勇者について知ろう。勇者は数百、数千年前から存在る、とルーツが知れぬほど古い存在だが、これほど大きな都市であれば、市立図書館に何かしらあるだろう。
今の魔王は――本来はこの世から消え去っている為に――半生が伝説と化している存在だ。
自分の今までが敵に知られている事がどれほど不利であるかも承知しているが、少年が求めるのはその戦闘体系や純粋な力、技の数々ではない。"ソレ"が何を考え、どんな思考に辿り着きやすいのか、考察の判断材料にするのだ。
技や力がどれほど変わろうとも、思考ばかりは簡単には変わらない。青春時代の人間ならまだしも、プライドの塊である魔族の王たる存在で、しかも数百年生きた彼である。
根に染み付いた癖や考え方を、そう簡単に覆せるはずが無い。出来るのは新たに付け加えるだけの事。今のところ、それが厄介なだけである。
「風紀委員に、君はまだ在席られるかい?」
「勿論」
少年が笑顔で答えると、ノートリアスも笑顔になった。
彼は手を差し伸べた。少年は、たったそれだけのやり取りで、数分程度の会話で心が今頭上にある空の如く晴れ渡った事が嘘のように、あるいは、自分が今まで落ち込んでいたことが虚構のように思えて、そんな自分がどこか面白かった。
「これから、よろしくお願いします」
少年はその手を強く握る。ノートリアスは単純な、だがどこか賢く切り替えの早い、やりにくい少年の笑顔を見て楽しく思った。力も無く武器の扱いも不得手で、魔力量も絶対的に少ないが故に魔法も碌に扱えず、覚える事もままならない。だというのに、この一筋縄ではいかない少年は、酷く魅力的だ。
「あぁ、これからもよろしくね」
彼等はそれぞれ違う考えを思い描き、だが両者とも同じ清々しい笑みを浮かばせながら、足元から聞こえる予鈴の鐘の音を、全身に浸透させた。




