1 ――僕だけの旅路――
そういえば今は何月何日だろうか。
ソレはふと疑問に思ったが、しかし、どうでも良い事だと首を振って疑問を脳内から振り落とした。
彼は――――久しぶりに着る人間の服に若干の違和感を覚えつつも、見慣れた、懐かしい都市への道のど真ん中で立ち止まっていた。
背後を振り返れば、小さく見える『貿易都市ハクシジーキル』。前を見て、魔族特有の鋭い視力で目を凝らせば、はるか遠くの小さい門が彼の脳に、視覚情報として送られた。
その門――――『王都ロンハイド』一帯はまるで別世界のように暗雲立ち込め光は無く、完全な闇に閉ざされている。おそらく人間の生存者は居ないのだろう。彼は鋭い角の先で、指の腹を突付きながらそれを伺った。
――――日差しが肌に張り付いた。だが彼の黒い肌は露にならず、包帯に巻かれた指や、周到に着込まれた服によってそれは隠れている。だが唯一つ、気がつくと生えていたその角ばかりは、どうにも隠しようが無い事に、彼は今気づいた。
「ヘシ折ればいいじゃねェか。貴様が我にしたように」
そんな彼とは対照的に、黒い魔族魔族した肌を隠そうとしない二本角の魔族、テンメイは怨み籠ったように低く喉を鳴らした。一本角は鼻を鳴らして、すかさず残る一本を強く握り締めた。
「自業自得だろうがよ。なんだ? 坊主にされたいのか? 何人喰おうが誰を喰おうが、自爆以外で俺に勝てねー癖に恨みがましいんだよっ!」
「状況と能力を有効利用しているだけだろう? 貴様もそうだ。自分の持てる力、持っている能力を完全に理解し応用し駆使しているだけだ。そう見ると、同等の戦いじゃアないか。そう見ると、どうだ? 結局、貴様はこの我に一度も勝てていないじゃアないか」
包帯に巻かれた傷一つ無い手を振り払い、テンメイは大事そうに、まるで汚らわしいものから逃れたように、手で優しく撫で回す。
一本角は妙に気味の悪い光景だというように、顔に巻く布の下で表情を歪めると、テンメイはソレに気づいたように――――彼と同じように、角を力強く掴んで引き寄せた。
「角、と言うのはな」
テンメイは神妙な顔つきで、静かに続けた。
「無いものも居るし、有る者も居る。だが、その有る者にとっては……そうだな、人間にとっての睾丸と同じだ。分かるか? 貴様は今股間を鷲掴みされているのと同等の状況だ。貴様になら分かるだろうこの例えが。へし折れると痛いのだ。痛いというどころの話ではない。気を失う。下手をすれば死に到る。分かるか? 今すぐ握りつぶせば理解るのか?」
「握りつぶすって言うな。テメェの説明は睾丸だがコイツは角だ。だが、魔族の中で一番の硬度を持つこいつを、テメェがへし折り握りつぶす事は出来ないと思うぜ?」
それでも彼はテンメイの手を振り払い、一定の距離を置いた。それから、緊張迸る胸をほっと撫で下ろして角を撫でていると――――自分がそうしたように、テンメイの顔は酷く嫌なモノを見たように歪んでいた。
一本角がなるほどと、肩をすくめて息を吐く。するとテンメイは破顔して、声を出さずに軽く肩を揺さぶった。
「一応、繰り返すがな」
テンメイが、穏やかに流れ始める時間を自ら断って、そして再び低く声帯を振動させた。
彼はそれに頷いて、共に真剣な眼差しを交差しあった後、テンメイはゆっくりと続ける。
「以前の進行レベルは、一年で西洋大陸の上半分の侵略だ。魔族は各地に赴き、魔物を連れて街を襲うが、所詮は魔物だ、高々魔族だ。幾ら魔王の力で凶暴化させられていても大勢の人間には勝てないし、魔族だって、街に一人は居るであろう”強い奴”には負けてしまう」
そして魔王単身でも、侵略は難航を極めるのだ。
彼の言うとおりいくら魔物魔族を従えたとて、勝てない人間には決して勝つ事が出来ない。だから地道に、力を集めて領域を広げて行く作戦を、魔王は施行した。
そうして、全世界の魔物の凶暴化や、魔族の創造を、数年掛けて魔王は終えた。その頃には、密度は低く、手中に収めた、とは言いがたいが、西洋大陸は魔王の支配に堕ちたと言う形なっていた。
だがその時間は同時に、勇者と呼ばれる戦士の誕生を許してしまった。
勇者は戦闘面に於いて何かが突出しているという訳ではない。腕力や魔力、知力だけならば、その道を極める者に負けてしまう。
だが、彼には驚くべき成長性があった。誰にも負けない強靭な不屈の精神があった。
だから誰にも負けず、常に前を見て、何も見捨てず、世界に支えられてきた。だからこそ、彼は勇者と呼ばれ讃えられていた。
そんな勇者の登場から数ヶ月、魔王はこの世から去ることとなる。
「魔王の敗因はたった一つ。たった一つの単純な答えよ。『奴は人間を甘く見すぎた』」
得意気に言い放ち、テンメイはふふんと喉を鳴らす一方で、一本角は苦虫でも噛み潰したように表情を崩して、首を振る。
ということは――――と、言う事は、だ。
かつて魔王だった存在の『奴』は、人間に用心深くなったわけだ。だからこそ、『王都ロンハイド』を一人で侵略することが出来たのだ。
だからこそ、その侵略の進行は常より遅くなるのだろう。否、それは逆になることもあり得る。その両方を考えていて損は無いだろう。
どちらにせよ、まだ時間はあると言う事だ。無くても無論、作り出すのみ。
五年もあれば、その中で十人くらい、勇猛な人間が魔王討伐を夢見て旅に出る。そして彼等が散った後、正義に目覚めた”誰か”が、魔王討伐を現実のものとするだろう。
勇者は血筋であったが、元は単なる人間である。だからこそ、ただの人間にも勇者たる資格がある。素質があるものならば、その可能性はグンと上がるのだ。
五年あれば十分だ。――――俺がそうだった。彼はそう思い返して、再び空を見上げた。
その深い蒼が目にしみて、彼は大きく欠伸を掻いた。
「その勇者が現れるまで時間を稼ぐというのかァ? 馬鹿馬鹿しい。だから人間に仮装して……、そこまでして、守るべき種族だったのか? お前は少なくとも、あの約二十年の歳月の中で、そう感じる事が出来たのか?」
「価値がある? 違うね」
まるで心を読んだように――――突然話を振られた彼は、”欠伸のために溜まった涙”を手の甲で拭い、包帯を軽く湿らせてから、鋭い眼差しでテンメイの瞳を貫いた。
「気に喰わねぇんだよ。自分の時代でも無い奴が、ただ生き返られたっつーだけの理由で、前回できなかったことを、鬼の居ぬ間にやっちまうって事がよぉ」
「羨ましいだけなんだろ? お前は。奴と同じ条件でこの場に居るのに、奴だけが自分の運命を貫けるのが」
「違うって」
「違わないな。貴様は理不尽に心底腹を立てた。だからこそ、今まで自分勝手に人間を助けてきたンだろうが。魔族と人間は、どんな状況でも、どんな心境でも互いに手を取り合ってはいけないと言う暗黙の了解以前の常識を打ち破ってまで」
「だから――」
「――――知っているか?」
珍しく、感情を投げ捨てたような顔に”戻る”テンメイに、思わず彼は息を呑む。
飲み下された言葉は腹に溜まった。
恐らく消化不良を起こすだろう。そう思いつつも、彼はそんなテンメイの台詞に耳を傾けた。
「貴様は不本意な形で、理由で、この世界に名を刻むことが出来なかった。だが今、貴様は生きる伝説と化している訳だ」
「……どんなだよ」
怪訝な顔で尋ねたことだろう。彼は目と角しか出ていない顔であるにも関わらず、そう不思議に思って、疑いを捨てた顔に引き締めなおす。
テンメイは一つ大きく息を吐いて、漏れでそうな笑いを胃に溜め込んで、次いで口を開いて紡いだ。
「危険になったらどんな状況でも助けてくれる謎の人、って伝説よ。酷く幼稚な言い伝えだが、かれこれ五○年以上続いている。貴様が派手に、行動を開始してからだ」
「……一部の地域だろ? まさか」
「”まさか”。全世界に、だ。世界的な先進国から魔法技術が殆ど行き届いていない田舎まで。貴様の自己満足の所為で、この世界の人間は今正に、顔も名も知らぬ、ただ『馬鹿強い』という情報だけで構築されている貴様の幻影に、祈っているだろうよ。『あぁどうか、魔王の手からこの世界をお救い下さい』とな」
テンメイは、彼の驚いた様を間抜けに真似して言葉を続ける。だが一本角に、その馬鹿にした動作を戒めてやる事は出来ず、ただ驚愕に、その精神を、思考を、費やした。
「だ、だが俺は――」
「――そう、資格が無い。なのに力はある。今のお前なら確実に魔王を倒せるだろう。その能力なら絶対、だ。が、しかし、貴様は魔族だ。貴様はそもそも、人間を助ける権利は無い。だからといって、魔王を崇拝しなければならないだとか、付き従わなければならない、なんて事は無いが……」
再び言葉は遮られ、彼はやってしまったという激しい後悔と――――本当に自分がやっていいのか、という疑念、それと、強すぎる期待を、同時に胸に抱いた。
それでもテンメイは言い捨てる。貴様には資格が無い、と。
そう何度も繰り返して見せるが、彼は聞く耳を持たぬようだった。
やぶへびだったかと、首をふり肩をすくめて、テンメイは背を向ける。
その背に生える巨大な翼は大きく羽ばたいて、辺りの砂を力強く宙に舞わせた。強風が、彼の身体を意地悪に嬲った。
「これだけは良く覚えておけよ”ハイド=ジャン”。貴様の身体は、その力は、どう足掻いても魔族以外の何モノでもない。そして正義の矛先を失った勇者のその後を、その無い頭で思い描け」
彼はやがて大地から足を引き剥がし、その広大な大空へと飛んで行った。
人間がいくら望んでも羽ばたく翼が無い故に、決して羽ばたけない青空へと。
名を呼ばれた彼はテンメイを見上げて、それから小さく、溜息を漏らした。
「分かっているさ、そのくらい」
ハイド=ジャンはそれから暫く、かつて故郷だった国を眺めて――――ゆっくり足を、歩を進めた。




