1 ――体調不良――
自由学園の寄宿舎は学園から割と離れた位置にある。
それは登校の際に学生が入り乱れて道をふさいだり、ぶつかって怪我をしたりなどの危険性を除去するために、自然に人と一定以上の間隔を開け歩かせるために作られた距離である。
少年は高級ホテルのような男子寄宿舎第二棟の四階にある自室を後にして、いつものようにエレベーターで階下に降りて、そこを後にする。
自動ドアが少年の体温に反応して開くと、もわっと蒸した空気が全身を嬲り――――爽やかだと思っていた朝は幻想だったと認識した。
そういえば、今日は湿気が多く暑い一日だと先日のニュース番組の天気予報コーナーのアナウンサーが告げていた事を思い出す。正確に言えば、今日から週末まで、という話だったが。
少年はそれから数分歩を進めた。
特に何を考えるわけでもなく、そもそも思考するという行為に今日は朝から妙に疲れてしまう。歩くたびに頭痛が増す気がして、今日は休んだ方が良かったと後悔の念が少年の中で生まれた。
そして、そんな後悔が最も大きく硬く強く激しくなったのは、歩みを緩めざるを得なくなった通学路に差し掛かった辺りである。
真っ直ぐ進む通りの終着点は丁字路であり、そこを左に曲がると後は学園へと真っ直ぐである。どちらも二車線道路に歩道という普遍的な造りの道であるが、曲がった先が、体調不良者にとっては割ときつい坂道なのだ。
友人と歩いていれば然程気にならない坂でも、一人で、しかも具合の悪い時に歩けば体力の消耗は必然となる。
そのうえ――――。
「昨日テレビで」「あはは、だよね」「うんうん」「でもでも」
昨日のように気まぐれで朝早くに登校したわけではなく、今日はいつも通りの時間に寄宿舎を出たワケである。だから、その時間帯はこのまま進めば始業時間より早く学園に到着する。というモノで、故に登校する学生が最も多くなる時刻であった。
その中で少年は黙々と坂を上り、手で額の汗を拭いして歩くのだが、周りは怪訝な顔をして彼を避けて歩いた。
恐らく――――頭痛と吐き気と疲労で表情が険しくなっている所為だろう。少年は直ぐに勘付いて、しかし、直せる物ならとっくに直せているぞ、と心の中で毒づいた。
――――そうして彼は、なんとか学園へ、そして教室へとたどり着いた。真ん中の後ろという、適当に空いている席に座る頃には既に精根尽き果てた様子ではあったが。
こんな状況では風に吹かれて微睡みたいと思ったが、窓際は既にクラス内の元気系男子グループに占領されてしまっている。これは仕方の無いことだと、恐らくもう誰も座らないであろう長机に少年は突っ伏した。
クラスの在席人数と席の数を数えると、席の方が少しばかり多いために、必ず空きスペースというものが現れる。
少年は先に空きスペースをひとりで潰す事によって、絶対的な余裕を確保したのだ。主に精神的な部分の。
そして、呼吸を落ち着かせながら――――無意識はまた懲りずに、思考する。
――――本当に担任は傭兵として雇われた人間なのだろうか? 否、疑うべきは、疑問に思う所はそこではない。
少なくともあの実力はそう簡単に付けられるものではないはずだし――――魔王と呼ばれた相手を――偽者であったが――殺せるほどの戦闘能力である。その戦闘経験は相当だなんて言葉で表現できない程であろう。
そんな彼女が、一教員として自主的にこの学園に居るという考えは難しいから、傭兵と考えて先ず間違いは無いだろうが――――。
なぜ、このような状況に陥ると、少なくとも予測は出来たはずなのに傭兵である彼女を教員という役割に当てたのだろうか。事務員のほうがより自由であるし、清掃員だって彼女がやれば自由が多い仕事になるだろう。
そのような役割とは違って教員は学生の前に立つのだ。戦闘による怪我などで学校に来れなくなれば確実に目立つし、学生諸君は疑問に思う。そうすれば無駄なことにばかり考えがいって成績も落ちてしまうかもしれない。下手に詮索して、学園内が不穏な空気に包まれるかもしれない。
そうすれば学園は質の高い学生らを輩出できなくなり、近隣諸国からの信用も落ちてしまうかもしれない。
極端で偏った思考ではあるが、少なくとも良い方向へ影響が向く事は無いだろう。
――――チャイムが、呑気で平凡な日常の時間を進めた。
静かに開くスライドドアは、入場者の人となりを見せるようだった。
入ってきたのは、顎鬚の目立つ、メガネを掛けた白衣を羽織る一人の男。彼はワキに出席簿を挟んで、革靴をかつかつならして教壇に立った。
「担任のシャロン先生は身内に不幸があったようで、暫くはお休みするようです。代わりに私が、その間担任として配属されました――――」
なるほど。身内の不幸を理由にすれば、あの焦りようもそう不思議なモノでもないし、職場復帰できなくても仕方が無い、というような受け取り方も出来るわけだ。上手い事を考えるものだ。少年は偉そうに心の中で誉めてやった。
そんなくだらない自己完結の戯れに意識を向けた所為で、気がつくと彼の簡潔な自己紹介は終えており、少年は名前を覚える事が出来なかった。
最も、彼はこの学園の生徒なのだから、ただ一言「先生」呼ぶだけで事足りるのでそう困った事ではないのだが。
そもそも、彼の存在を素直に受け入れている自分は、世間一般から見て一体どういう評価をされるのだろうか。事情をある程度知っているので、心の内では心配したほうがよいのだろうが、そもそも彼女の――言い方が悪いが――得体が知れない限り、心境は複雑なモノだ。
そんな事を考えていると――――ふと、その無造作に生やされた顎鬚の男と、目があった。丸眼鏡の奥の薄い目が、鋭く彼を捉えていた。
それは、生徒全体を流し見て偶々視線が交差した、なんてものではなく。明らかな、彼を目的とし、少年を見つけて睨んだ、というような……嫌な予感が腹の奥底でうずくような、意図的な視線である。
少年は咄嗟に視線を外して俯くと、彼はふっと鼻で笑ったような気がして、何か――――異様な感覚に、身体は包まれ始めていた。
「一時限目は……、あぁ、私の授業だね。それじゃ、五分の休憩を置いて授業を始めます。号令」
既に定位置と化した、少年が座る列の一番前に、鎮座するように背筋良く居た委員長アカツキ・シズクは元気良く「起立」と声を上げた。
「ローラン君はどうだって?」
その休憩時間にシズクは潰れている少年の席にやってきた。いつのまにかの事だったが、小脇に教科書を抱えているので恐らく教室後ろ側の壁に設置される個々のロッカーからソレを取り出してきたばかりなのだろう。
少年は億劫そうに身体を起こして、口を開いた。
「病院で、一週間様子見だって」
「そう。それじゃ、出てくる頃には学校は休みになってるわね」
「休み?」
夏休みとはこれほど早かっただろうか。いや、まだ体育祭も期末学力試験も終えてないのに、夏休みのはずが無い。だったら、一体なんだったろうか。
痛い頭を抱えて思い返そうとすると、頭の上から彼女の呆れたような声が掛かる。
「一年生は中間試験が無いのよ。他の先生も忙しくなるから、授業もしないで一週間休みなの。もう、君はしっかりとしていると思ったのに……。ちょっと、良く見ると顔色が悪いわよ。大丈夫?」
ブレザーを着ずに、ブレザーと同色のチョッキをワイシャツの上に着るため、その豊満な胸は屈むことでより強調される。彼女は心配そうに顔を覗きこんできた。
少年は迫る圧迫感から逃れるために俯き加減だった姿勢をしっかり伸ばして、体調不良の旨を伝えた。こればかりは自分に非があるのであまり口にしたくは無いのだが、具合が悪いのは仕方が無いのだ。
「そういえばあの場で一番レベルの差があったんだもんね。どうしようもなくなったら、ちゃんと言ってね。保健室に連れてってあげるから」
「うん、ありがとう」
「それじゃ」
彼女がそう軽く手を上げて自分の席へ、取り巻きの女子たちの中へと戻っていくと、それとほぼ同時に先ほどの後任の先生が教室に入ってきた。
――――その後の記憶は、酷く遅い時間の流れに体調を悪化させられる中、必死になって二人分のノートを取るのに必死になっている事しかなかった。
幾度かシズクも話しかけてきてくれたのだが、思い返せばそれにしっかりと返答して、常に浮かべている薄い笑みを向けられていたかは定かではない。昼休みをどう過ごしていたかすら定かではなかった。確か彼女が帰り際に何か言っていたが、愚鈍な脳は記憶を引き出せないで居た。
少年の意識は、放課後になってようやくはっきりと覚醒した。
魔力が抜けたのか、授業というストレスが消えた事で精神的負担が消えたのか、彼にはわからないが、少なくとも、朝よりは大分マシな調子を取り戻していた事だけは理解できる。
そうしてふと思い返してノートを見返すと――――文字はいつも以上に達筆で掛けていた。恐らく、邪念を捨てて集中すると鋼鉄でも切り裂ける力を出せるとかいう剣術に似たものだろう。
教室内は、他クラスからの友人を招きいれているために人口密度はそう減ることは無かった。そこから察するに、恐らく放課されてからまだ五、六分くらいしか経過していないのだろう。
少年は立ち上がり、ノートをバッグに詰め込むと、
「ねぇ」
男の声が耳に届いた。声は真っ直ぐ右耳へと入り、視界内に入り込むその姿へと顔を向けると――――ソレは、割と近くにいた。ギリギリ、心理学で言うプライベートエリア入らない距離に。
「君はローラン・ハーヴェストと同じクラスだよね?」
ネクタイは濃い緑、抹茶色をしていた。比べる少年のネクタイは赤であり、この色の違いは学年を分かりやすく表し、見分けが付くようにしたものである。
一年から順に、赤、青、抹茶、白、という風に廻り、それはロケット鉛筆のように使いまわされていく。
つまり彼は三年生であり、つまり少年より二つ年上である先輩であり、またロランに用事がある、という事だけがこの状況で分かっていた。
「え、ええ。はい」
髪はネクタイに似た濃い緑色をしているが、恐らく狙ったものではないのだろう。髪染めは風紀委員に怒られ強制的に戻されるが、入学の際に手続きを取れば、生まれ付きのものは問題ないのだから。
少年は短く返事をしてから、大きく息を吸って続けた。
「風邪を引いてしまったみたいで、当分は休むみたいなんです」
無難な理由の休みだろう。風邪は長引けば症状は軽くなれど治り難いし、一週間程度の休みはそう不思議に思われない。下手に大きな病気や怪我を言い訳にするよりははるかにマシ、といったところだ。
「そうか……。いやなに、先日、戦闘能力レベルの発表があって彼の存在を知ったんだけどね。彼は一年だというのに学園の誰よりも高いレベルを持っている。それだけでも十分脅威だから――――風紀委員に入ってもらおうかと思ってね」
「風紀、委員……ですか」
委員会は全て生徒会の下で活動する。だがそれにも優遇されるものとそうでないものがあって――――風紀委員は前者の最たるもので、生徒会の右腕と化しているような存在である。
彼等は完全実力主義を謳い、一定以上の実力を持たなければ委員会すら入れてくれず、また思考能力が低ければ直ぐに自主退会を懇願される。強制的にやめさせる事は出来ないためである。
真面目で、レベルの低い少年にとっては縁の無い話であったが――――身内で、まさか”勧誘”される人間が居るとは。少年は驚きを隠せずに居た。
最も、存在自体が規律違反への抑止力になるから、なんて理由だろう。そうなれば、口が裂けても怪我をして療養中だとは言えない。それは彼の印象への大きな傷になるからだ。
仮に無理矢理言わされたとしても、魔王の存在を信じてくれるとは思えない。そうすれば、理由付けや説明がより面倒になってしまうのだ。
「あぁ。風紀委員は生徒会と並んで唯一他の学園と関係を結ぶからね。彼が居れば十分力になってくれるだろうと睨んだんだが、残念だ」
彼が言うのは、学園と学園で協力して都市内の犯罪を取り締まる仕事の事だろう。
この都市には警察が居ない。故に、犯罪を取り締まるのは個人しか居ないのだが、必ず力の無いものというのは居るものである。
だから、警察の代わりにある程度以上の力を持つ学生たちが自警団を立ち上げて取り締まる活動を行っている。それが、他の学園がそれぞれ風紀委員を出しあって作り上げる組織である。
彼等の犯罪検挙率は、ここ数年九五パーセントを切った事が無いらしい。全く持って優秀な事である、と、少年はそんな感想しか出せない。特に興味が無いからだ。
「ご足労かけてすみません。多分、中間試験明けまでには来ると思うんですが――――」
「……ふむ」
言葉を遮って、彼は一人頷いた。何か、勝手に納得したような彼の瞳は飢えた獣のようにギラリと鈍い輝きを放っていた。
少年は思わず一歩後退すると、上級生は一歩進んで距離を保った。
「失礼かとは思うが、君のレベルはもしや五ではないかな?」
「…………」
「その沈黙、肯定と受け取って話を進めるよ」
少年の見開く眼は、その瞳は、焦点が合わずにぶれにぶれまくっていた。
なぜばれたのだろうか。立ち方? 相対の仕方? 質問に何か隠されていたのだろうか。目が泳ぎすぎていたのかもしれない。いや、声が無意識の内に震えていたのか? 無意識で自分のレベルが相手に知れる事を恐れていた? それを見透かされたのか……?
思考が停止する少年に構わず、緑髪の男は得意気に口を開いた。
「僕はまずレベルが低い奴は皆低脳だと思ってた。無論差別じゃあないよ。僕が見てきた低レベルの人間は皆そうだった。世界的に統計を取ったとしてもそうだという自信がある。だけど、思ってたって事は、それを覆す何かが存在すると言う事さ。例えば――――君とか」
「……、あの、何の話をしているのでしょうか」
「聞けば分かるさ」
彼はどことなく――――嬉しそうな笑みを浮かべて、楽しそうに目を細めて講釈を垂れ続けた。
「そう、レベルとは戦闘能力を数値化して示したものだ。だけどね、どれほど力があって、反射神経があって、動体視力があったって、本体が馬鹿じゃあ意味が無い。宝の持ち腐れってワケさ。そして低レベルの人間は大抵、その頭が悪いから、自分の身体も魔力も全て、扱うのにぎこちない。センスが無いって言い換えてもいいんだけどね。だけど、君には驚きだよ。身体が貧弱ってわけじゃないし、今の会話でも分かったように頭も人並み以上らしい。恐らく推察も優秀な事だろう。そんな君は、ソレ相応のレベルを持っているべきなのに、まるで期待を裏切るレベル五という結果さ。学園最低だって、教員の間ではもっぱらの噂さ」
はははと笑う先輩の声は大きく――――教室内に残っている生徒は皆、彼へと、否、”彼等”へと視線を集中砲火していた。
逃げ出したい。このヘンな先輩から今すぐ逃げ出したい。この足元に突然ぽっかりと穴が空いてでもいいから消えてなくなりたい――――というか、本題が済んだんだから早く帰って欲しい。
少年は思い、口にする決断をするのだが、やはりそれよりも早く緑髪は講釈を続けた。
「これは特例中の特例かもしれないよ。いや、笑ったのはすまない。けど馬鹿にしたり蔑んだりした笑いじゃあないよ。探し物をしているときに掘り出し物を見つけたような嬉しささ。これは本当だよ。気を悪くしたなら謝るからそんな顔をしないでくれよ。ほら。そう、話は本題に入るけど――――君、ウチに来ないか?」
その本題はあまりにも突然すぎて――――あまりにも真っ直ぐすぎた。
「あ、あの僕――――図書委員会に入ってるんで!」
少年は勧誘を力いっぱい断って背を向け走り出した。嫌な予感がプンプンだからである。
緑髪の上級生は彼の予測したものとは違い追って来ず、少年は廊下を暫く走ってから速度を緩め、背後を確認してから、可及的速やかに昇降口へと向かった。
「――――ちょっと、どこで油売ってると思ったら一年の教室って……。上級生は居るだけでもちょっとした威圧になるんだから、用が済んだらさっさと戻りなさいよ」
夕日に染まる、長い髪を頭の両側で結う少女は高圧的な口調で、少年が居た教室へと入り込み、窓際で外を眺める緑髪の同級生へと言葉を投げた。
彼は――――いつにない穏やかな表情で振り返り、
「今年はなんだか、面白くなりそうだよ」
「面白いのはアンタの顔で十分。待たせてるんだからさっさとする!」
彼女はそんな彼などおかまいなしに、自分のリボンと同色のネクタイを引っ張ってその場を後にした。




