第九十六話 戦の足音
シンの姪であるマコと遊んだアサヒとカナトは、日が傾くと早々にシンの故郷を出た。
アサヒがこんなに密に子どもと接したのは初めてだったが、別れる時には寂しいと思えるくらい親しめたことに彼自身が驚いていた。子どもの無垢な部分を見たといえばいいのか、アサヒは自分で思っていたよりも子どもに好かれたことが嬉しかった。
マコもシンの母親も泊まっていけば良いと言ってくれたが、あともう少しすればマコの両親、つまりシンの長兄とその結婚相手が帰ってくるらしい。ありがたい申し出だったが、気を遣わせるに違いないため丁重にお断りした。
小さくなっていく村を時々振り返りながらアサヒは復路を進む。
結果的にシンの行方は分からなかったが、来て良かった。シンに再会したら彼に実家のことを話してみて、もしシンに一度でも帰りたい気持ちがあるならば、気後れなくそうして欲しい。むしろそうさせられるのは自分の役目ではないかと、アサヒは考えていた。
その日は歩けるところまで先に進むと、夜は焚火をおこし、二人で囲むようにして野営をした。
空気は冷たく澄んで星空が近く、気持ちの良い夜だった。
次の日の午前中。
海の見える見晴らしの良い高台に出るとカナトが急に立ち止まった。
一瞬目を剥いた彼は、取り乱したように声を上げた。
「錫ノ国!……錫ノ国の船だ!」
その言葉にアサヒもすぐさま海の方角を見やる。
沖の方に帆の張った大型船がいくつも浮いていた。距離が遠く詳しい数は分からないが、数十隻単位。
カナトはアサヒよりも船に詳しく、加えて目が良いのかより的確に判別できていた。
「あれは商用ではない、軍用船だ。大小はあるが五十隻から六十隻。あの数は間違いなく戦を起こす気だ!」
海路だけであの数だ、陸路はもっといるとカナトは苦々しげに言って、荷を背負い直す。
「間が悪すぎる。急いで戻るぞアサヒ!」
「ああ!」
船隊は二人を置いて南の方角へと進んでいく。おそらく都近辺に着くのは向こうが先だ。
錫ノ国と港町かどこかでかち合うか、戦中に乗り込むか。
一番考えたくないのは都に着く前に戦が終わっているということ。
アサヒにとって最も重要なのは戦の勝敗ではない。
彼が何より案じるのはハツメの身。
霧に霞んでいく錫ノ国の帆船団を睨みながら、アサヒは駆け出した。
一方、海ノ都シラズメでは。
数日続く雨の中に不穏な気配を感じとった人々が少しずつ動き出していた。
それは学術院の一室でもまた然り。
キキョウが珍しく、というよりハツメが来てから初めてではないだろうか、書物の片付けを行っていた。
しかしそれが進んでいるかどうかは微妙なところで、ああでもない、こうでもないと独り言を言いながら部屋をうろうろしている。動作もどちらかというと緩慢で、いかにも気が進んでいないようだった。
そしてこちらも珍しく、仕事ではなく個人的にルリが研究室を訪れていた。
キキョウの様子を見て手伝いを申し出た彼女だったが、キキョウもさすがに断った。とはいえ喉から手が出そうな顔だったし、今はなおさらそう思っているに違いない。
そんな彼の様子を申し訳なさげにちらちらと眺めながら、胸の前で両手を握ってルリは口を開いた。
「最近、ミヅハ様見ましたか?」
影が差した彼女の顔。
「ううん。ルリのところにも来ないの?」
「はい。連絡すらないのは初めてでして、何かあったのではないかと……」
そう言ってルリは視線を落とす。彼女の心配そうな声に、棚からこぼれ落ちる書物と格闘していたキキョウがこちらを見た。
「議会の方もなんだか雲行きが怪しいからねぇ。実家が絡んでるんじゃないかな」
実家って王家か、とハツメは少し身体を引いた。
「ミヅハ様のご実家……」
ルリはつるりとした頬に片手を添えると、息を吐いた。ミヅハから実家の話を聞いているのか、なにか知っていそうな雰囲気だ。
「ルリとミヅハの付き合いって長いの?」
「ミヅハ様が留学された当初からお世話になっております」
ハツメの質問にそう答えて、ルリは微笑む。世話しているのはルリの方ではないかとハツメは思ったが、続く話を聞けばルリの方もミヅハに助けられているようだった。
「わたし、家族がいないんです。それで生活する為にハクジの砦を下りて、掃除婦としてここで働いているんですけど。ここを選んだのって、学術院に入るのが夢だったからなんですよね。一人だとお金がなくて無理でしたが」
十八歳のルリはもうそのことを受け入れているのか、落ち込む様子もなくただ述べる。
「でもミヅハ様とお知り合いになれて、お手伝いさせて頂く中で書庫の資料を拝見できたり……そうだ、隣で一緒に講義を聴かせて頂けたこともありました」
よほど良い思い出なのだろう、ルリの目は温かい。
「お優しい方ですよね、ミヅハ様。よく『庶民』ってお言葉使いますけれど、その庶民のお話を聞かなかったことってないんですよ」
ちょっと言い方がきついですけれど、そう言ってルリは眉を下げて笑った。
「まあミヅハくんは優しいよねえ。こっちに来てからかどうかは分からないけど」
キキョウはルリの言葉に同意しながら、ミヅハから貰った眼鏡を大事そうに仕舞っていた。どうやら棚の書物は諦めたらしい彼は二人を見て、ぐしゃぐしゃと頭をかく。
「でもそんなミヅハくんが音沙汰なしなら……これは、荷物もまとめておいた方がいいかもねぇ」
止まない雨が研究室の屋根を叩く中、彼は気だるげに息を吐いた。
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