第九十五話 シンの故郷
港町を出てからはいくつも村を泊まり継いでいった。漁村もあれば農村もあった。途中小高い山に突き当たり、難しくはない峠を越えた。
「海ノ国と錫ノ国の国境にも峠が一つあってな。大きくはないが砦があって、関所になっているんだ」
二国間の国境は大陸の南から北に走る山脈と、山脈の終わりからは東の海に流れ出る大河によって隔てられているらしい。ただ大河はあまりにも川幅が広いのと、互いの都から離れすぎているために国境越えには適さないようだ。
この大河は花ノ国の都付近を流れていたのと同じもの。花ノ国を出た後は海ノ国のやや内陸に位置する平野部を流れ、南北に連なる山脈が終わるところで東へと緩やかに向きを変え、海へと流れ出て行く。
よって二国間を行き来するには、大河と峠の関所を通る陸路を行くか、大陸の北側をぐるりと回る航路を使わなければいけないということだった。
「都に行くには航路の方が圧倒的に早いがな。検閲が厳しいから忍び込むのが大変だ」
「カナトはどっちで来たんだ」
「航路だ! 船旅は男の憧れだろう!」
いささか呑気ではないかと思ったが、船旅への憧れは分からなくもないアサヒだった。
シンの故郷には港町を出てから十日ほどで着いた。往復すればひと月かかるという当初の計算通りだった。
村はそれほど大きくなく、集落が二つ三つと、後は水田、畑が広がるばかりだった。しかし農閑期だからか外を歩く人は殆どおらず、村の端から端まで歩くのに三人としかすれ違わなかった。
人に聞くしかないと軒先で軽作業をしていた老婦人に聞けば、シンの実家はすぐに分かった。シンが村にいたのは十数年も前のことだが、小さい村だからか村民同士の繋がりは深く、老婦人も覚えていたらしい。
シンの実家の前に着くと、何かを燻すような匂いがした。つられて近くの小屋を見れば、土の煙突から細く煙が上がっている。一種の燻製小屋のようだ。
視線を目の前に戻し、軒先に吊り下がった大根と柿を触らないようにして、二人は家の戸を叩いた。
のんびりした声と共に出てきたのは五十歳前後の女性だった。白髪の混じる髪を後ろで一つ束ねている。
「おや。どちらさまだが」
「シンさんの実家はこちらで合っていますか」
語尾が上がり調子で訛りのある女性はアサヒの言葉に二、三度その目を瞬かせると、慌てるというよりは放心した様子で二人を家に招き入れた。
木床に敷かれたござの上に二人は座る。
「大したもんはねえけど、ちょっと待でな」
そう言ってもてなしの準備を始めるシンの母親らしき女性。
アサヒが「突然すみません。お構いなく」と言うと、女性は柔らかく微笑んで外へ出て行った。
「カナト。シン様の家族には今の事情は一切言うなよ」
「反乱軍のことか?」
「それだけじゃなくて。シンが行商人になった先から一切のことだ」
考えてもみろ、とアサヒは続ける。
「行商人になるという息子を送り出したら息子は王族の側近になっていて、戦に巻き込まれて今は行方不明ですって突然言われたら困るだろう。卒倒してもおかしくない」
「確かにそうだ。では俺たちは何者だと言えばいい」
「シンとはぐれた行商の弟子ということでいいだろう」
アサヒの言葉にカナトはすんなりと頷く。すると同時にずず、と重い音を立てながら家の戸が開かれた。
「おにいちゃんたちだれ?」
幼い声がした方を二人が見やれば、まだ五、六歳だろうか、ちゃんちゃんこを重たげに着た女児が戸口から二人を見つめていた。
「シン様の弟子だ! カナトという」
「シンさ……? シンおじちゃん?」
おじちゃん、という女児の響きがしっくりこずアサヒが首を傾けると、その子の背後から先程の女性が入ってきた。
「おやマコ。戻ってきたんかい」
「うん。今日は遊ぶの終わりだって、チカちゃんが」
そうかい、と女性は扉を閉めて、そのマコという子どもと土間から上がってくる。
ゆっくりと膝を折った女性は「こんなものしかねえけれど」と言って干し柿といぶり大根を差し出した。
「では改めて、シンの母だす」
シンの母親はそう言って、背を丸めるようにお辞儀をした。
アサヒとカナトは先程の打ち合わせ通りシンについて説明をした。そして訪問時に感じたとおり、シンは故郷には戻ってないとのことだった。
「そうですか」
「こんな北の端くんだりまで来てもらったのに、申し訳ねえな」
「いえ。お会いしたいのはこちらですから」
丁寧なアサヒの返答にシンの母親は目を細めた。
「シンもこんな立派なお弟子さんを持つようになったんだなあ。小さい頃はこっちが心配になるくらい気を遣う子だったから、どうしてるかと思ってたが。……こんなこと言っちゃいけねえんだろうが、会いたいねえ」
煤けた頬に手をやって、シンの母親は遠くを見た。
「シンさんに会ったら伝えておきます。今日はありがとうございました」
アサヒがそう言って頭を下げると、マコが跳ねるように声を上げた。
「え、おにいちゃんたち帰っちゃうの?」
「あ、ああ」
「マコと遊んでいこう!」
そう言ってアサヒの手をぐいと引っ張るマコ。シンの母親が止めようとすると、カナトが勢いよく立ち上がり笑顔で口を開いた。
「いいだろう! 日が暮れるまで付き合うぞ!」
その後は本当に日が暮れるまで二人はマコと遊んだ。
マコが「シンおじちゃん」と言っていた通り、彼女はシンの姪だった。長男の子供らしい。
シンがどういった人物かカナトが雄弁に語り出したときはアサヒもどうしようかと思ったが、他ならぬマコが聞きたがったために止められなかった。もちろんカナトもシンの立場は明かさなかったし、褒める際も子どもに分かりやすく教えていたが。
「シンおじちゃんってすごい人なの?」
「ああ。シン様は素晴らしいお方だ!」
マコはカナトの言葉を受けて「さま……」とぽかりと口を開ける。
「そうだ! マコも様を付けるといい。シンおじ様だな!」
「シンおじさま」
「良い子だ!」
そうやってマコの頭をわしわしと撫でるカナトを、アサヒは生温い目で見つめていた。
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