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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第三章 海ノ国編
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第九十三話 花香る夜、花漁る男 二

 海へと流された灯篭は、既に遠く、小さな灯りとなって海に漂っている。流されるにつれ一つ、また一つと少しずつ灯りは少なくなっていった。


 鎮魂祭が終わり、海岸線も大通りも人は疎ら。厳かな祭事の後は、大半の人々が静かな夜を迎えていた。


 しかしそれに外れる人間も必ずいるもので、彼あるいは彼女たちは今日も花街を訪れる。白に包まれる鎮魂祭の夜にもかかわらず、色を求めて集うその数は花街の目抜き通りを賑わせる程には多かった。


 そんな人間たちが行き交う花街を、男は一人歩いている。


 服装はもちろん軍服ということはなく、濡羽色の着物に、黒紫色の帯、黒鳶色の羽織と黒尽くしだ。遊び人の間では流行りの形。


 それをさらりと着こなし、花街の大通りを闊歩する。

 元々の見目も良い彼はその洒落者の雰囲気も相まって、時々女性の方からも声を掛けられる。いつもなら節操無く手を付けるところだが、今日の彼は断っていた。


 期限付きで異国を遊び尽くすには効率良く回ることが必要だ。

 上の命令で海ノ国に来たのは間違いないが、仕事だけで終わらせるつもりなどさらさらない。主もそれが分かっていて早めに自分を送り出したのだろう。


 まずは花街を全て回る。それだけだとつまらないから、後半は都で普通の女も捕まえつつ。ハクジの娘を落とすのは骨が折れそうだが、せっかくの海ノ国。それも期間限定とくれば多少攻めてでも味わっておきたいものだ。あとは、都の外での仕事の際にその先々でも田舎娘を引っ掛ければ、これで滞在中は大体遊べるのではないだろうか。


 そこまで考えて、リンドウは自身の組み立てた予定に満足気に口の端を上げた。


 一昨日から海ノ都に入っている彼は、既に花街の大店の殆どは確認済みだった。


 今日はどの店から入ろうか、そう物色しながら歩いていると、一軒の店――ちなみにここは普通の芸妓屋――の暖簾の向こうに見知った影を見つけた。


「よう」


 赤い蝶々柄の羽織を纏った、小さな背中に話し掛ける。


 声を掛けられた相手はびくっと身体を震わせる。恐る恐る振り返ったその芸者は、まるでお化けにでも遭ったかのように、くしゅ、と顔を歪ませた。


「あああぁぁ……リンドウさん……びっくりした……」


「なんでこんなところにいるんだよ」


 そんな様子に構わずリンドウが聞けば、相手は努めて可愛らしく首を傾けた。といっても立ち直ろうと必死のその表情はまだ引きつっている。


「仕事です」


「ふーん……仕事ねぇ」


 リンドウは相手の豪奢な羽織を見回しながら襟足を弄ぶ。


「リンドウさんこそ、わざわざ海ノ国なんかに来てどうしたんですか?」


「仕事だよ。……なんだその顔」


 リンドウの言葉に目を丸くする相手に、彼はほんの少し顔をしかめる。


「別に。リンドウさんが仕事とか、明日は何が起こるのかと思いまして」


「ああ。……まあ、明日じゃねえな。もう少し後だ」


 そう言って彼はにやりと笑う。


「お前、こっちには戻らねえの?」


「えっと、錫ノ国ですか? もう少ししたら戻ると思いますよ」


 小柄な芸者はリンドウを見上げ、愛想良く微笑む。客に向けるのと同じ顔だな、と彼は目を細めると、


「じゃあ俺行くわ。お前もほどほどにな」


 そう言って踵を返し、ひらひらと片手を振る。


「リンドウさんに言われたくありません」


「ほんと口が減らねえのなー」


 背中越しで口をすぼめているだろう相手を想像して、リンドウは言葉を返す。そのまま暖簾を潜ろうとすると、他の芸妓に声を掛けられた。


「あれ、帰られるんですの? ケイちゃん人気ですけれど」


「あー、あいつは無理」


 年上らしい経験豊かそうな芸妓に、彼は外向きの笑顔で答える。


「むしろお姉さんはどう? 俺としては御座敷よりも寝所にお呼びしたいんだけど」


「まあ。ここは普通の芸妓屋でしてよ」


 くすくすと芸妓は笑う。やはり客から言い寄られるのは慣れているらしい。


「じゃあいつ終わる? 他の店で時間潰してるから」


 そう言って芸妓の手を取り耳元で囁くリンドウに、芸妓は四刻後なら、と小声で呟いた。


 約束を取り付けたリンドウはその芸妓と別れると、楽し気に店を後にする。四刻ならもう一人は遊べる。彼は赤い灯篭がむやみに煌めく通りに出ると、そのまま目に付いた遊女屋に入っていった。

四刻=二時間と思って頂ければ幸いです。

お読み頂きありがとうございました。

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