第九十二話 花香る夜、花漁る男 一
茶器が並べられた円形の卓の前に、一人の貴婦人が腰掛けている。華美な装いの女性は優雅に佇むが、閉じられた扇子を自らの手になり卓になり、絶えずどこかに打ち付けている。強くはない。ぴし、ぴしと音が鳴るか鳴らないか。
錫ノ国の冬は大陸の中でも比較的暖かいが、さすがに扇子を使うほど暑くはない。癖になっているのだろうな、とせわしなく動く彼女の手元をエンジュは見やった。
クロユリが主の自室に来たのはつい先程。夕食後に息子の部屋に行くという彼女の言葉を聞いたエンジュは真っ先に主にそれを伝えると、カリンにもその旨を話し準備に取り掛かった。
クロユリがイチルの部屋を訪れるとき、イチルは自分の世話係を全員下げる。母親に自分のものを見られないようにするためと、イチル自身が母親をもてなすためだ。唯一入室を許されているエンジュとカリンが給仕を申し出てもイチルは断る。
よってエンジュとカリンはいつも部屋の隅に控え、その、親子にしてはいささか奇妙なやり取りを眺めることしかできなかった。もっとも、二人も正しい親子の関係というものを見たことがないため、奇妙も正しいも想像でしかないのだが。
今のイチルといえば、椅子にもたれているクロユリの横に立ちながら茶を淹れている。これで本日は二回目。思わず見惚れてしまうような、流れるような段取りだった。
違和感があるとすれば片手しか使っていないことなのだが、いつの間に会得したのか、美しいほどに手慣れた所作だった。本職と言われても納得の給仕ぶりだが、不釣り合いなのはその美貌と雰囲気。特に雰囲気の方はむしろ世話を受ける方が相応しい、人々の上に立つ王族のそれだった。
本来ならばこういった世話係の仕事など生涯せずともいい人間のはずなのだが、イチルは母親が自室に来たときのみこうやって自ら茶を淹れる。あのクロユリが何も言わず飲むのだから美味しいに違いないのだが、彼の淹れる茶を飲めるのは世界で彼女一人のみ。
イチルが硝子製の急須に湯を注げば、中に入れた乾燥花がふわりと開く。色が少し鮮やかに返り、華やかな香りが立ちのぼる。その香りのたなびきに彼は優しく蓋をした。
少しの間を開けてクロユリの湯呑みに注ぐ。湯呑みも急須と対になる意匠の硝子製で、触っても熱くないように金属の取っ手が付いていた。
クロユリは一度香りを嗅いでから花茶を口に含む。そのまま喉を潤すと、彼女は当然のものを頂いたように表情を変えないまま、会話を切り出した。
「ミヅハはどうしているかしら」
「元気でやっているようですよ」
イチルは彼女の脇に控えたまま答える。
それまでの会話は国王の話題のみだったが、今日はそこに彼女の二人目の息子の話題が入るようだ。
「そう。十三になったのよね。声変わりはしたのかしら」
前に会った時はまだだったわ、と言ってクロユリは茶をもう一口飲む。
「あれだけ陛下に似ていると、声も似てくるのかしら。楽しみだわ」
「ええ」
急須の中で揺らぐ花を楽しそうに眺める母親に、イチルは乾いた声で相槌を打った。
「イチル。今度の戦、ミヅハの身に何かあったら承知しませんからね。……帰るわ」
「かしこまりました、母様」
イチルはいつものように丁寧に一礼すると、クロユリの座る椅子を引く。そのまま部屋を出て行く母親に付き添い、出口まで送り届ければ、再度深く頭を下げた。クロユリは振り返ることなく廊下へ消えて行った。
外に控えていた彼女の下働きが静かに扉を閉めると、イチルはふっと頭を上げた。
優美な歩みで先程の円卓へと戻る主に、エンジュが声を掛ける。
「お疲れ様です」
「ふふ、親子の時間にお疲れもないでしょう」
イチルは可笑しそうに息を漏らすと、急須の蓋を開け中の花を取り出した。濡れた花は力なく彼の指に張り付く。
「楽しみなんだ、海ノ国に行くの。先入りしているリンドウくんが羨ましいくらい」
「あの馬鹿に勤まりますでしょうか」
答えたのはカリンだ。宮殿に戻ったリンドウにはほとほと呆れていた彼女だが、いなくなるとそれはそれで心配だった。心配なのはリンドウではなく、仕事や彼の周りなのだが。
「今回は彼向きの仕事ばかりだから大丈夫。花街での会合なんて嫌でしょ? 二人とも」
イチルの言葉に二人は目を伏せた。イチルの命令ならば喜んで引き受けるが、代わりがいるならば進んでやりたいとは思わなかった。
「アザミくんもいなかったけど、こっちの仕事は片付きそうだし。今回は皆で行けるね」
旅行にでも行くような軽い口調でイチルは言った。ね、と首を傾けた彼の顔は楽し気だ。
主に華やいだ表情を向けられたカリンは言葉が出ず、ただ熱い溜息を吐く。頭の中は溶ける寸前だろう。
そんなカリンを横目に、エンジュは頭を下げる。
「軍の準備は万全でございますれば。機が熟しましたらいつでもご命令下さい」
「うん。ありがとう」
そう言ってイチルは二人から視線を外す。指に張りついた花が再び乾いてきていた。イチルが指を軽くこすり合わせると、その白い花は粉々に崩れ落ちた。
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長くなりましたので二つに分けさせて頂きました。




