第九十一話 鎮魂祭 三
林檎飴を食べた後は、屋台を回ったり広場で行われていた芸能を見たりと気ままに過ごしていた。
人だかりをつくる旅芸者を見て、ケイはいないのかな、とあの惚れ惚れする舞を思い出したハツメだったが、ケイとは広場ではなく屋台を巡る途中でちらりと顔を合わせることになった。
賑わう大通りで、人々が道の左右にはけていく。なんとなくハツメたちもそれに倣おうとすると、先にミヅハがすっと人混みに消えてしまった。
あれ、とハツメが振り向いてすぐに、人々がはけた理由が明らかになった。
革新派筆頭のタイラが悠然とした足取りで通りを歩いている。従者を数人引き連れて、大仰に祭りを観覧しているようだ。
ハツメたちの前を通り過ぎるところで、横に大きいタイラの脇からひょこり、と小さな影が顔を出した。
今日も華やかな芸者姿に決めたケイが、タイラの見えないところでハツメにひらひらと手を振る。
ケイはタイラ一行のあまりの目立ちように少し困った様子で笑う。仕事とはいえ少し気の毒に思いながら、ハツメもまた笑顔で手を振り返した。
タイラやケイがいなくなって少しすると、ミヅハが戻ってきた。話を聞けば、どうやらミヅハとタイラは顔見知りらしい。革新派は錫ノ国寄りのようだから、子どもとはいえ王族のミヅハと面識があるのは当然かもしれない。
「僕、あいつ嫌いなんだよね」
そう苦々しく話すミヅハにハツメは心の中で頷いた。昼間から芸者を連れ回すような人物だ。十三になったばかりのミヅハが毛嫌いしているのも納得だった。
しかしケイといいミヅハといい、成人もしていないうちから難儀なことだな、とハツメは思う。
ハツメは少なくとも成人までは谷ノ国で穏やかに暮らしていた。そこでは大人に振り回されることなど皆無だったため、尚更そう感じるのだった。
鎮魂祭の祭事は昼に行われる鎮魂の儀だけではなく、夜には大切な『御魂流し』があった。
死者の魂を弔うために火を灯した灯篭を海に流すというこの祭事。灯篭を流すのはハクジの民や海ノ国の国民に限らず、鎮魂祭に訪れた全ての人々が行うことができる。
すっかり日が暮れた後、海岸線に向かって坂を下る途中で、ハツメたちはミヅハやルリと別れた。
橙に光る無数の灯篭が海岸線で揺れ動くのを眺めながら、三人もまた各々の手に灯篭を持ち海辺へと向かう。波のさざめきが聞こえてくると、トウヤが静かに口を開いた。
「御魂流しだが、二人でやるといい。俺は俺で山ノ国の民を想うことにする」
え、と戸惑ったハツメとアサヒが何か言うよりも先に、トウヤは「ではな」と言って背を向ける。
二人にも山ノ国の民を想う理由はあるのだが、トウヤの胸中はまた違うのかもしれない。トウヤは最初からそうするつもりだったようで、迷いなく離れていく彼に引き止める言葉が見つからなかった。
ああそうだ、とトウヤは一度だけ振り返った。
「御魂流しを終えたら一人で飲むから、帰りは遅くなる。明日、研究室でな」
そう言ってやんわりと口角を上げると、トウヤは再び背を向け、灯篭がつくる薄明かりの中小さくなっていった。
ハツメとアサヒは何気ない話をしながら海岸線に沿って浜を歩く。人の疎らな波打ち際にくると、二人は足を止めた。
会話がなくとも、思いは同じだった。
ハツメがしゃがむとアサヒもそれを追うようにして腰を落とす。
目を瞑って、静かに想う。
その間に、波が四回打ち寄せた。二人がそれぞれの灯篭をそっと暗い海に放せば、柔らかな光は初めは足元で行ったり来たりしながら、次第に時間をかけてゆっくりと離れて行った。
流れていく灯篭を見つめながら、アサヒ、とハツメは彼の名を呼ぶ。
「今年、四神祭できなかったね」
毎年秋の終わりに行われていた四神祭。谷ノ国を出てから一つの季節を回り、冬を迎えた彼女たちは十七歳になっていた。
「四神様、怒ってないかしら」
それはハツメが感じていた一抹の不安だった。神宝の力が自らの手に余ると感じていたこともあったのかもしれない。
「どうだろう。四神と直接話したことがないから分からないけど。……俺はハツメが無事に生きてくれているだけでも嬉しいよ」
波のさざめきの中でもしっかりと通る声でアサヒは言った。ハツメが彼を見ると、こちらを見て愛おしむように微笑んでいた。
「四神がそれで怒るなら、俺が抗議したっていい。ハツメと一緒にいられるなら四神も怖くない」
そう話す彼の穏やかな笑顔が急に眩しくなって、ハツメは目を細めた。
アサヒは続ける。
「それでも全てが終わったら。谷ノ国に帰ろう。またあの場所で暮らそう、ハツメ」
今は夜。太陽は隠れ、空も海も闇が覆う。吐く息の白さまでも霞み、湿った風が頬を掠めていく。
視界の端には、海へと流れ行く魂がある。
そんな中だったが。
朝がきた思いだった。
清々しく温かな陽の下にハツメはいた。
アサヒの美しさは、日中に燦々と照り付ける太陽というよりは。
夜を満たす哀しみを乗り越えた先。澄み切った世界に柔らかに射す、朝の陽の美しさだった。
「谷ノ国に帰りたい?」
「……帰りたい」
あんなに外の世界を望んでいたというのに。いや、あの外の世界を夢みるアサヒとの時間があったからこそ、最後にその記憶を持ち帰りたいのがあの場所なのかもしれない。
「俺も。帰りたい、ハツメと一緒に」
アサヒの指の先が、ハツメのこめかみに優しく触れる。そのまま後ろへ、彼女の豊かな髪をかき上げるように指を絡ませると、白く、しかし頬だけは薄く桃色に染まった顔が、灯篭によってぼんやりと照らされた。
ハツメはただ、自身を慈しむように見つめるアサヒを眺めていた。アサヒの目には朝に見たときと同じ柔らかな光が宿っている。
波の音は聞こえない。潮の匂いも感じない。
胸に沁みていくアサヒの温かさだけに浸っていると、彼の目はハツメを捉えたまま、ゆっくりと近付いて来る。
少し、首を傾けるように。
彼の長い睫毛はハツメに触れるほど近く。甘い息遣いは彼女の耳ではなく、唇が感じようとしていた。
アサヒの思うままにその身を委ねていると、触れ合う寸前、彼の動きが止まった。
すっと顔同士が離れる。
アサヒは手に絡ませていたハツメの髪を前に掬うと、行き場をなくしたその思いを移すように、彼女のその柔らかい髪にそっと口付けをした。
「……ごめん、頭を冷やしてくる」
すぐ戻ってくるから、そう言ってアサヒはその場を離れた。
波の音、潮の匂いが解き放たれた胸に入り込む。
髪が熱さなど感じるわけがない。だが、アサヒの唇が触れたそこだけが熱くなったような、不思議なざわめきに襲われる。
ハツメは恐る恐る、唇が触れた場所に手をやった。脈を打っている。当然その脈は髪のものではなく、激しく震え立つのは、自身の指や心臓。
今のが髪でなかったらどうなっていたのだろう。考えただけで全身が熱くなるが、もしそうだったとしても。
「……嫌じゃなかった」
ハツメは一人でそう呟いた。その小さく紡がれた言葉は、自分でも思いがけなかったもので。
彼女ははっと手の平を口に当てた。
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