第八十七話 呼子笛
舟屋群を過ぎ、海岸沿いにそびえ立つ巨岩から海辺に下りたところ。
訓練場となっている砂浜で、アサヒとトウヤの二人は冬にしては凪いだ海を眺めていた。
冷え込む季節とはいえ、訓練で身体を動かせば芯から火照るもの。濃い潮風が腰を下ろした二人の肌を心地よく包み、広がる深青の海は訓練で昂った神経を穏やかにする。
「しかし、昨日のミヅハの慌てようは意外だったな」
着物の襟をくつろげたトウヤがおもむろに口を開いた。
昨日ルリが暴露した、ミヅハがハツメの友達になりたいという話。
ミヅハ本人が直接認めたわけではないし、友達という言い方も少々語弊があるような気がするのだが、あの慌てっぷりをみれば全く間違いでないのは分かる。
「……ああ」
トウヤの言葉に、アサヒはぶっきらぼうに返した。
「アサヒも頑なにミヅハを拒むのだな」
弟なのだろう、とトウヤはアサヒの顔を覗いた。怒っているわけでもないその顔は、無表情のようでどこか気まずさがあった。
「態度が気に入らない」
「それだけには見えぬがな」
なおも冷めたようなアサヒに、トウヤもまた淡々と話を続ける。追及したいわけではない。ただ、アサヒに話す気があるならば、ここでしか言えないこともあるだろうと、そう思いながら。
静かな海と飾り気のないトウヤの声。しばらくの間が空いて、アサヒがぽつりと呟いた。
「……自分と錫ノ国とのつながりを、認めたくない」
遠く、真っ直ぐに伸びる地平線を見つめながらアサヒは言った。
「ミヅハを見ると自分もあの一族の一人なのかと、出自を恨みたくなる。母上には感謝しているんだ、母上には」
アサヒは一度目を閉じる。浮かぶのは、異能の力で見た母親の、凍土のように冷たく凍った姿。
「危険を伴うことは分かっているんだ。でも母上だけは、きちんと弔いたい。……何故だろう」
ハツメを狙う錫ノ国をどうにかすることと、アサヒの個人的な願いは偶然にも同じ方向を向いている。今の錫ノ国――国王と、第一王子の横暴を止めることは、戦の終焉にもつながるだろうと思う。ただ、自身の願いによってハツメの身に余計な火の粉が降りかかることを、彼は恐れていた。
錫ノ国の国王から母親を引き離すことは、生半可なことではないと分かっている。錫ノ国の中枢に真っ向から噛み付く行為だとも知っているが、それでも諦めきれなかった。
最近の苛立ちはミヅハに対してなのではなく、ハツメ以上に大切なものはないはずなのに、こんな我儘を思う自分自身に対してなのだと、アサヒは思った。
「四神信仰に沿うならば、しっかりと弔わねば魂は海へと還らぬ。大事な人の安らかな眠りを祈ることは当たり前のことだ、アサヒ」
薄く瞼を開けたアサヒを横目で見て、隣に座る友人は静かに微笑む。
「神宝の宿命を背負ったハツメ嬢を守るのはもちろんだが、俺はお前にも付いて行くぞ」
それは確かな声で。自責の念にかられたアサヒの心をしっかりと支えてくれた。
「トウヤ。……お前、良い奴だな」
「今更過ぎやしないか」
アサヒの素直な言葉に、トウヤはふっと笑みを深めた。
アサヒは一人立ち上がり、波打ち際へと歩を進める。
足元に打ち寄せる白波を見ながら、軽くなった胸にそっと手を当てる。
小さく硬い感触にあたった。
ふと思い立って、懐からそれを手繰り寄せる。
これを渡してくれた、自分が誰より尊敬する男は今どこにいるのだろうか。海ノ神は知っているのか、せめて彼の安否だけでも。まだ眠る魂ではない。万が一でも流れ着きそうなことがあったら、掬い上げてほしい、自分の元に。
アサヒはそう思いながら、それを自身の口にくわえた。
その音が凪いだ海、隅々に渡るように。アサヒはシンから貰った呼子笛を吹いた。
波のさざめきだけが聞こえていた空間で、甲高く突き抜けた音が辺りに響く。
瞬時、といっても相違ないくらい、その気配はすぐに現れた。
その影は岩場の上から飛び降りると、一直線にアサヒに向かいくる。
暗色の衣を靡かせ近付く気配にアサヒが振り向く。こちらに手を伸ばす男の腕を――アサヒは反射的に弾いた。そして、後悔した。
アサヒに拒まれたことで、相手は本気になった。よく見知った男の目にさっと宿った、闘争の色。男はアサヒに掴み掛かると、そのまま彼を押し倒す。
アサヒが背中から冷たい海水に身を落とせば、今度はぐんと、呼子笛を結んだ組紐を引っ張られる。紐を掛けた首ごと持ち上げられ、アサヒは慌てて浅い海底に手を付いた。
そこでようやく口がきけるようになったアサヒが叫ぶ。
「落ち着けカナト!」
「何故お前がこの呼子笛を持っている! 返答次第では容赦しない!」
「話すから! まずは落ち着け! ……トウヤも、剣を下ろせ」
その声にカナトがぴたりと動きを止める。
アサヒの眼前には、余裕のない表情で彼を睨むカナトと、カナトの背に刃を向けるトウヤの姿があった。
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