第八十六話 本心は
初雪を迎えてから都の空気はますます冴え、本格的な冬が訪れた。
これまでにハツメが越冬を経験した谷ノ国や山ノ国では冬といえば山々が眠る沈黙の季節だが、ここ海ノ国では別だった。
毎日のように人々は厳冬の海へと舟を出し、冬に訪れる魚をはじめ、旬を迎えた海の幸を引き上げる。
こうして人の手に渡った海の恵みは都のあちこちでやり取りされ、食料としてはもちろん、人々の賑わいの種として海ノ国に恩恵をもたらしていた。
そして、海ノ国が冬も賑わう理由はもう一つある。
冬の半ばに行う大きな祭事、鎮魂祭だ。
この祭事は四神信仰の『魂の流れ』に由来する。
四神信仰では、人はみな地中から生まれる。そして地上での一生を終えると、体は再び地中へ、魂は川に沿って流れていき、やがては海へ還る。
この『魂の流れ』において、海に還った人々の魂を受け入れるのが海ノ神だ。
海ノ神が慈悲深いと言われる所以かもしれないし、慈悲深いからこそ海ノ神はこういった役割を担ったのかもしれない。
いずれにしてもこの大陸の魂の終着点は海であり、海ノ神なのだった。
鎮魂祭はその海ノ神に感謝と敬意を示す祭事。
そして、海に還った人々が安らかに眠ることを祈る日にもなっていた。
その鎮魂祭の日が数日後に迫っている。
儀式の準備で忙しいのはもちろんだが、当日は商業屋台も多く出るというから、その楽しみもあって都は一層活気付いていた。
周囲は騒がしくても、キキョウの研究室は相変わらずのんびりとした雰囲気だ。家主がそうなのだから仕方がない。ハツメたち三人も鎮魂祭に参加するわけでもなく、見物だけするつもりだから気楽な心持ちだ。
慣れた夕飯を終え三人はぽつぽつと会話をする。キキョウは珍しく外出していた。
風に窓枠が揺れかたかたと音を鳴らしていると、ふいに戸口が開く音がした。剣の手入れをしていたアサヒが眉を顰める。この時間の来客といえば決まっていた。
「邪魔するよ」
そうは言いつつも当然の顔で部屋に入ってきたのは、案の定ミヅハだった。外は濡れ雪が降っているというのに、艶のあるしなやかな髪には水滴一つ見当たらない。後ろにはルリもいて、彼女の方は少しだけ左肩が濡れていた。ミヅハに傘を差してきたのだろうな、とハツメは考えた。
ミヅハは軽い足取りで椅子に座るハツメに近付くと、彼女を見下ろしたまま口角を上げた。
「お前さ。曲がりなりにも谷の民を名乗るなら祝詞くらい覚えた方がいいよ。どうせ知らないんだろ?」
そう言って机にぽすんと史料を置く。古い書物が一冊と、最近のものらしい書き付けが数枚。この書き付けはミヅハが書いたものだろうか。角がしっかりした丁寧な字だ。
「本当にしょうがない生き残りだよね」
ミヅハはそう言って目を細める。最初に比べれば刺々しい雰囲気はだいぶ和らいだのだが、言い方はそのままだ。
積もり積もったものがあったのだろう。そのミヅハの一言に、これまでずっとだんまりを決め込んでいたアサヒが口を開いた。
「なんでそうハツメに構うんだ。そんなに嫌味を言うくらいなら来なければいいだろう」
アサヒは険しい顔とまではいかないが、明らかに不快だという態度でミヅハを見る。ミヅハもまた冷たくアサヒを見れば、交差した二人の視線はまるで火花が散るようで。
ハツメは少し顔を引きつらせた。ミヅハはともかく、アサヒの尖った態度には慣れていない。
これはなだめるのが正解なのか。アサヒをなだめるって、どうやればいいのだ。自分が言って悪化したりしないのだろうか。そうやってハツメが一生懸命思考を巡らせていると、思わぬところから助け船が出た。
「えーと、ミヅハ様は、ハツメさんとお友達になりたいんですよね」
おともだち。ルリの穏やかな声で、そのふわふわとした言葉が発せられる。
たおやかなルリの目からすれば世界もそう見えるのかな、とハツメは思ってしまった。
「お友達?」
だからハツメも努めてたおやかに、ルリに聞き返す。
しかし努めてつくった表面上の余裕は、ルリの次の一言で壊されてしまった。
「ええ。ミヅハ様、昔から言ってたじゃないですか。谷ノ国に行ってみたいって。四神信仰大好きですものね」
「え?」
「は」
ハツメとアサヒが同時に驚きの声を漏らす。
「おや。そうなのか」
トウヤもまたミヅハを見やれば、全員に見つめられた少年の綺麗な顔が、淡い赤に染まっていく。
「ち、ちが……」
「少しくらい素直にならなければ駄目ですよ、ミヅハ様」
たしなめるように眉を下げて笑うルリに、ミヅハはぐっとつまる。
三人の居た堪れない視線をすぐに察したのか、我慢できなくなったミヅハは声を張り上げた。
「……ちょっとルリ! 何でそういうこと言っちゃうのさ!」
驚くほど年相応の、あどけない声だった。
「もう僕帰る!」
瞳を潤ませた少年は早足で部屋の板戸に向かう。戸の前に立つと振り向いて、
「別に友達になりたいとか思ってるわけじゃないからな!」
そう言い捨てると、ばたばたと足音を立てて出て行った。
その様子を見ていたルリが慌てて動き出す。
「あ、ミヅハ様ー! お傘ささないと濡れてしまいますよー!」
「もう! じゃあさっさと来てよルリ!」
遠くで叫ぶミヅハの声を追いかけるように部屋を出て行こうとするルリ。
部屋を出る際、彼女もまた振り返ると、
「これからもミヅハ様と仲良くして下さいね」
と柔らかに笑った。
そのまま廊下に消えていったふわふわしたルリの頭を見送れば、何とも言い難い気分になるハツメだった。
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