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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第三章 海ノ国編
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第八十五話 錫ノ国と天鏡

 しとしとと屋根を叩いていた雨の音はいつの間にか止んでいた。

 研究室で一人過ごしていたハツメが外を見れば、花模様に彫られた格子窓の向こうで、ちらちらと淡雪が舞っている。

 白い花びらのような柔い雪は、枯芝に落ちては滴となって消えていく。


 昨年滞在していた山ノ国では既に雪かきが始まっている時期なのだが、海からの寒風が吹き荒ぶここシラズメは、雪自体は降るものの、積もることは殆どないらしい。


 その方が過ごしやすくはあるものの、毎朝手分けをして新雪を掘り起こすのも楽しかったと、ハツメは昨年の冬を思い出した。


 ここずっと、ハツメは研究室で書物を読み漁っている。数冊読み終われば書庫へ行き、新たなものを借りてくる。その気になれば研究室と書庫の行き来だけで完結する日常だ。

 もちろん全く身体を動かさないということはなく、数日に一度は人目を盗み、学術院の敷地内で剣を握っていた。


 アサヒとトウヤは周囲に気兼ねなく訓練ができる場所を見つけたようで、毎日のように出掛けている。

 一人の時間が増えたわけだが、講義がないときはキキョウが近くにおり、日中は時々ケイが、夜にはミヅハが訪れる。寂しいと感じるどころか、寝床に入る際はほっとする程度に賑やかな日々を過ごしていた。




 そんなある日の昼下がりのこと。

 キキョウが所用で学術院を離れる間、ハツメは研究室の留守を任せられた。いつものように借りてきた書物をめくる。


 濁流の川を絵に描いたような癖のある文字列を、指でなぞりながら追いかける。

 知りたい内容まで流されていかないよう必死に文章に食らいついていると、ふと現れた一文に指の動きを止めた。


 そこには、神宝(かんだから)の力について記載されていた。


「えーと……天剣(あまのつるぎ)は邪を押さえる力、天比礼(あまのひれ)は邪を打ち払う力、天宝珠(あまのほうじゅ)は……邪を癒す力」


 癒す。癒すといえば、病や怪我を治すことだろうか。

 ふるり、背筋が寒くなる。


「四つ揃った神宝(かんだから)が蘇りの呪力をもつというのも、無視できなくなってきたわね……」


 錫ノ国の国王はアサヒの実の父親だ。アサヒの父親が、彼の母親を生き返らそうとハツメと神宝(かんだから)を狙っている。そのことが周囲の状況を悪化させているのは間違いない。シンもまたその一人で、苦しみながらアサヒたちの足止めとなった。


 アサヒは母親をきちんとした形で弔いたいと言っている。『魂の流れ』に反することを望んではいない。

 国王の思惑を聞いても意見を変えなかったアサヒに少しほっとしたものだ。もちろんそうだろうとは、思っていたけれど。


 ぼんやりとアサヒのことを考えていたハツメは再び意識を書物に戻す。続く文章に、今度は目を瞬かせた。


天鏡(あまのかがみ)の記載が、ない」


 すっぽり抜けているわけでも、墨で塗り潰されているわけでもない。ただ不明とだけ、書かれていた。


「あれ、谷の娘だけなの?」


 突然降りかかった声にハツメが顔を上げれば、ミヅハがこちらを見下ろしていた。考えに耽っていたせいか、来たことに気付かなかった。


「谷ノ民も文字とか読めるの、知らなかったな」


 美麗な少年はふ、と息を漏らして口の端を上げる。


「……錫ノ国の人ってみんなそう差別的なの?」


「僕とあいつらを一緒にしないでくれる? あいつらのは差別、僕のは嫌味だから」


 どちらも不快には変わりないのに、何が違うのだ。そう考えるハツメを横目にミヅハはハツメの書物を取り上げると、内容を眺める。


「ああ、神宝(かんだから)のことね。本当、こんなことも知らないで集めてたなんて驚き。……でも、知らないことを自覚して勉強するのは悪いことじゃないね」


 そう言ってミヅハは少し笑うとハツメが使っている机に腰を下ろす。そのまま長い脚を組むと、ハツメを見下ろしたまま話し始めた。


「暇つぶしに、天鏡(あまのかがみ)について話してあげるよ」


 豊かな睫毛に縁取られたミヅハの目。その奥が楽し気に光る。


天鏡(あまのかがみ)はね、行方知らずどころかもう完全に無くなったんじゃないかって言われてる。錫ノ国は四神信仰自体、今はないからね」


「四神信仰すらない?」


「そう。そもそも、どうして錫ノ国っていうか知ってる? 錫ノ国はもともとは火ノ国だったよね、もう神話に近いぐらい昔の話だけど」


 他の国は神話の名前そのままだが、唯一錫の国だけが名称を変えている。神話の中では単純に火ノ神によって火ノ国がつくられていた。


「最初は火ノ国だった。でもあまりにも僕たちのご先祖様が敬わないものだし、火ノ神はもともと気性が激しいから。怒って、滅ぼしちゃったんだ」


 神様が自分の育んだ国を滅ぼすとは、よっぽどだったのだろう。


「その後のあまりの惨状から、火ノ国は『煤ノ国』って呼ばれてた。今の(すず)っていうのは、(すす)をもじったものなんだよ」


 自嘲するようにミヅハは口の端を上げる。


「今は色んな鉱業が栄えているから強国を気取っているけどね、もともとはそういう国さ。そういう国だから、四神信仰なんて残ってないし、神宝(かんだから)の話だって本当はとうの昔に廃れてた」


「廃れてた? 今は違うの?」


「そう。今は死んだけど、第二夫人、アカネという女が現れたからね」


 ミヅハは軽く鼻をならすと、ハツメから視線を逸らす。何もない壁を透かして、どこか遠くを見ているようだった。


「それからだってさ。父が異能の力の虜になって、神宝(かんだから)について調べ始めたのは。証拠に三十年前の大戦のときは、谷ノ国は蚊帳の外だったろ?」


 確かにそうだ。谷ノ国では大戦のときの話を全く聞かなかった。崖の中に篭っているような民族だから、どの国も気に留めなかったのだろう。谷ノ民にとっても、三十年後に話題にするようなことではなかったのかもしれない。

 好きなのだけれど、外界には疎い民族なのよね、とハツメは谷ノ民の民族性を振り返った。


「でも、そうやって神宝(かんだから)について調べているつもりでも、肝心の四神信仰はそっちのけだし、書物は全然残ってないし」


 あれじゃあ無理だよ、とミヅハは笑う。

 

「そういうことで、あいつらには天鏡(あまのかがみ)の能力は分からないし、ましてや存在場所になんか辿り着けないだろうね。それでも父は今血眼になって探してる。イチルはお前さえ死ねば万々歳だろうけど、あいつなら一応探してるのかな? ま、いずれにしても無駄だろうね」


「……随分上から目線だけど、あなたは何か知っているの?」


「さあね。前にも言ったけど、切り札というのは最後まで取っておくものだよ」


 そう言ってミヅハはハツメをじっと見ると、綺麗に口角を上げた。


「僕の話はここまで。良い暇つぶしになったよ、じゃあねハツメ」


 そう言ってミヅハは研究室を出て行った。


 ルリでも探しに来たのか。何をしに来たのだろうと不思議に思うハツメだったが、暇つぶしとはいえ良い情報を教えてくれたものだ。ミヅハが神宝(かんだから)について詳しいと言っていたキキョウの話は本当だったらしい。


 それにしても、私の名前、覚えていたんだな。ハツメはそう思いながら、再び書物に目を落とした。

お読み頂きありがとうございます。

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