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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第三章 海ノ国編
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第七十九話 カナト 一

 波のさざめきが聞こえる。

 規則的なようでわずかに変化するその音は、アサヒの全身を包み込み、彼に波に揺られているような錯覚を覚えさせる。波は絶えず押し寄せ、彼を呑み込んでしまいそうなほど、大きく響いている。


 アサヒは薄っすらと目を開けた。


 焦茶色の羽目板の天井が目に入る。

 キキョウの研究室ではない。


 はっとしたアサヒが勢いよく起き上がると、頭が微かにぐらついた。


 そうだ。男が突然頭上から降ってきて、接触事故を起こしたのだった。そう思い出しながらまだはっきりしない頭を支える。


 剣はどこだと周囲を見渡すと、寝床の脇に丁寧に寝かせてあった。まずはそれを手元に手繰り寄せ、改めて部屋の状況を確認する。


 おそらく一般の民家。板張りの部屋に畳が敷かれている。だが、井草特有の匂いは薄れており、その代わりに部屋に満ちるのは潮の香り。


 波の音も煩いほど大きいし、海が近いのだろうか。そう思って開け放たれた窓に近付いて外を見れば、その光景にアサヒは思わず身を乗り出した。


 アサヒがいる部屋は二階。

 目下は海だった。


 海が近いというより、海に接している。浮いている。明らかに船ということはないが、この民家は海の上に建てられていた。


「おお! 起きたか、お前!」


 快活な若い男の声にアサヒが振り向くと、二十歳には届かないほどの青年が部屋に入ってきたところだった。にこやかな青年の手には金属製の水飲みが一つ。


「いやはや、突然すまなかった! 水を持ってきてやったから飲むといい」


 さあ座れ、と手で促す青年を警戒しながら、一先ずアサヒは畳の適当な場所に腰を下ろす。

 青年が差し出した水飲みは金属を薄く叩いて作られたもので、土色に鈍く光っている。シンの持っていた水筒と同じ材質だった。そのつやつやと手触りの良い水飲みの中には透明な液体。本人曰く、水。


「……警戒しているな。それもそうだ。ほら、これで良いだろう」


 青年はアサヒから水飲みを奪い取ると、自分の手の平に少し液体を注ぎ、勢い良く口に含める。

 何も起こらないのをアサヒに見せると、そのままずいっと水飲みを差し出した。


 なかなか豪快な奴だな、アサヒはそう思いながら水飲みに口を付けてみる。中身は冷たい水だった。


「疑ってすまない。ありがとう」


「いや! 警戒心を持つのは戦う男として当然の心掛けだ、気にするな!」


 青年はびしっと音が鳴るような動作で宙に手をかざす。


「戦う男?」


「ああ! 剣もそうだが、鍛えているだろう、その身体! なかなか運ぶのに苦労したぞ」


 苦労したとは言うが、嫌そうな口調では全くない。青年の笑顔から気の良い人柄なのは間違いないが、この事故の原因は明らかに青年の所為だ。どう言おうかアサヒは悩んだが、苦言を呈する気も起きなかった。


「感謝する」


 ただ一言お礼を言って、軽く頭を下げた。


「いいんだ。急いでいた俺が悪い。ところでお前、名前は何と言うんだ?」


「……アサヒだ」


「そうか! 俺はカナトという。ところでアサヒ、その剣は山ノ国のものだろう、少し見せてくれんか。寝ている間に勝手に見るのは忍びなくてな」


 代わりにこっちを貸す、とカナトという青年が腰から自身の剣を鞘ごと抜いた。代わりを渡されるなら特に断る理由もない。アサヒは自分の剣をカナトに渡しつつ、同じように彼の剣を眺めることにした。警戒していないわけではなかったが、仮にこの男に敵意があれば、アサヒが気を失っている間にどうにでもできただろう、というのがアサヒの見解だった。


 柄の握り具合や鞘の輪郭を見ていたカナトが口を開く。


「抜いてもいいか」


「ああ」


 アサヒの言葉を受けてするりと剣を抜く。

 慣れた動作だった。


「しかし、よく山ノ国の剣だとわかったな」


 アサヒの剣は花ノ国の裏町でシンが新調したものだ。あの場所なら国内外のものが集まっていても不思議ではないが、山ノ国の剣であったとは知らなかった。アサヒが剣術を習い始めたのが山ノ国だったから、少しでも慣れ親しんだものがいいとシンが気を遣ってくれたのかもしれない。


「仕事柄、剣はよく目にするからな。……ああ、精錬も山ノ国らしい」


 光を当て反射させながらカナトは呟く。

 その様子を見て、アサヒも彼の剣を鞘から半身だけ抜いて、まじまじと見る。


 正直なところ、アサヒに剣そのもののいろは(・・・)は分からない。手に馴染むかそうでないかでしか見ていなかったから、目の前の青年のように金属の精錬などさっぱりだ。それでも、カナトの剣は凄いと思った。凄いという月並みな感想しか出ないのが残念だが、非常に硬く、精錬が良いか悪いかでいうならば、素晴らしく良い、なのではないかと感じた。


「どうだ、凄いだろう! 錫ノ国の剣だ」


 ――錫ノ国。


 その言葉にアサヒは視線を移す。床に立てた剣越しに彼の顔を見るが、彼は自分の発言を気にも留めていないようだった。


「錫ノ国の精錬の技術は凄いぞ。その剣が良いように、多種の金属、硝子も含めて、それらの扱いでいえば他の国の追随を許さん。……まあ、他に色々と問題はあるが」


 途中までは誇らしげに、最後は少し含みを持たせて話すカナトに、アサヒは平静を装って声を掛ける。


「カナトは錫ノ国出身か」


「ああ。ついこの間までな。海ノ国(ここ)に錫ノ国の人間は多いぞ。表面上の関係は友好だし、三十年前の大戦がきっかけで錫ノ国の文化が多く流入したからな。住みやすいのだ」


 海ノ国は三十年前の大戦で錫ノ国に唯一落とされた国だ。その後五年間、大戦が終わるまでは錫ノ国の占領下にあったと聞いているから、その際に錫ノ国の人間が技術や文化を持ち込んだのだろう。


「……さて! 無事に目覚めたことだし、昼飯を食いに行こう! ぶつかったお詫びだ、奢らせてくれ」


 アサヒの剣を観察し終えたカナトが唐突に言い出した。


「食欲がないんだが」


「何を言っている、もう昼過ぎだぞ! 大体鍛えていそうな割には色白だし、すぐ倒れるし、軟弱な奴め! いいからちゃんと食え!」


 日光を浴びても肌が白いのは体質だし、倒れたのはそもそもお前の所為ではないか。文句を言おうとアサヒは口を開きかけたが、


「言い訳は男らしくないぞ! さあ行くぞアサヒ!」


 アサヒの返答を聞く気がないカナトはお互いの剣をさっさと元に戻すと、無理矢理アサヒの腕を引っ張り部屋の外へ促した。


 アサヒは階段を降りながら、先を行くカナトの後ろ姿を見る。


 身長はアサヒよりも小さい。衣、袴は共に暗い色で、小物を含め身に付けるものは黒系で統一している。髪型は後ろの高いところで一つ結び。髪束がうなじのあたりで犬の尻尾のように揺れていた。


 身長も髪の長さも足りないが、シンのいでたちに似ているな、とアサヒは思った。シンを一回りか二回り小さくした印象だ。といっても、中身は欠片も似ていないが。


「何をしている! さっさと来い!」


 一階からやかましく自分を急かすカナトの声に息を吐きつつ、アサヒは残りの階段を下り、涼しい風が通る階下に出た。

お読み頂きありがとうございます。

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