第七十八話 書庫での二人
二人分の足音が、白い石床に吸い込まれていく。
本棚の間の細い通路を縫うように歩いていると、すぐそこの曲がり角から遥か昔の知識人が姿を現すような気がして、ハツメは思わず姿勢を正す。
そういった想像をしてしまうほど、ここの書庫は時を積み重ねることで成熟した空間を形作っている。
本来なら来ることもなかっただろうこの場所にいることが、ハツメを不思議な気分にさせた。
先日キキョウのところに世話になることが決まってから、三人は数日かけて海ノ都での生活基盤を整えた。
そうして今日ようやく、神宝調査が始まったのだ。
書庫の地下二階、隅の一角。
ここにいるのはハツメとトウヤだけ。
アサヒはというと、書庫には行きたくないとのことで別行動だ。
理由は一つ、ミヅハに会いたくないということ。
ミヅハは書庫にいることが多いとキキョウから聞いて、アサヒはハツメと一緒に行く予定を変更して書庫へは行かないことにした。
よって今日は一日、二人での史料探しだ。
お目当ては神宝そのものについての記載、そして海ノ神から生まれたという天宝珠の在りか。
ひと気のない静まったそこで、二人は淡々と作業を続けていた。
本棚の前、トウヤは自分に背を向けるハツメの様子を眺める。
ハツメは本棚を見上げ、上段の書物を引き出そうとしていた。きっちりと詰められた書物の中からえんじ色の背表紙の一冊を取ろうと、背伸びをしたハツメが右腕を伸ばす。
するりと衣の袖が落ち、血色の良い腕があらわになった。見た目も中身も健康的な彼女だが、もともとの骨自体は細い。
ハツメの華奢な手首を、トウヤは見つめる。
花ノ国から逃げる際、この手首があの下衆としか言い様がない男に踏み躙られたと思うと。
胸が締め付けられる。許容しがたい怒りは相手の男だけではなく、守れなかった自分にも向いていた。
トウヤはハツメの左肩にそっと手をのせると、右腕を本棚の上に伸ばした。
彼が掴んだのは書物の背表紙ではなく、ハツメの手の甲。
女性らしい滑らかな節に指を添えるように、そっと手を重ねる。
そのままトウヤの指は優しくゆっくりとハツメの手をなぞり、手首を優しく包んだ。
「トウヤ……?」
「手首は痛まないのか、ハツメ嬢」
「大丈夫よ。すぐ剣も振れたし、平気」
いつもと変わらない、気丈なハツメの声。
「……強いな。俺は無理だ。ハツメ嬢が目の前で傷付くのを見るのは、耐えられん」
トウヤの声はいつもより小さかった。
だがこの静寂な空間、二人の頭が触れるほどに近い今の体勢では、ハツメにはむしろはっきりと聞こえたに違いない。
「怖かっただろう。守れなくてすまぬ」
心からの謝罪だった。
「そんな。トウヤにはいつも助けられてるじゃない。ありがとう」
「……身に余る言葉だ」
そう言うとトウヤはすっとハツメの右手を離した。
そのままもう少し手を伸ばし、本棚からえんじ色の背表紙を抜き取る。
「突然すまなかった。調べ物を続けよう、ハツメ嬢」
「ううん。心配してくれてありがとう、トウヤ」
ハツメはトウヤの差し出した書物を受け取ると、普段通りの笑顔を彼に向けた。
ハツメは壁に向くように置かれた机を使い、先ほどの書物を開いている。
その背後、他の書物を探すかのように、さり気なくトウヤはハツメから離れた。
自分の手をじっと見る。
力なく開かれたその手に、まだハツメの手の感触が残っている。
少しだけ指を曲げてみる。
たったあれだけの時間で、彼女の手首がどのくらいの細さなのかを、この手は覚えてしまった。
口より先に手が出てしまうなど、らしくない。
どうせ忘れなければいけないものなら。
触らなければよかったと、トウヤは後悔した。
二人が書庫で史料探しに勤しむ間。
アサヒは一人、海ノ都、シラズメの散策に来ていた。
シラズメの街並みは面白い。
山ノ国や花ノ国とは違って、建物の基調が大きく二つに分かれている。
一つは今まで見てきたような木造の建物。
キキョウの研究室と同じように、薄い黒塗りの壁に黒い瓦屋根といった黒一色の様相を呈している。
もう一つは対極的な、白一色の建物。
こちらは石造りだ。遠目で見ると学術院の書庫と同じようだが、実際は使われている石も、建てられた年代も全く異なる。
書庫と違って石材はざらざら、色も上から塗料で塗られた白のようだし、年代も書庫よりはるかに新しく建てられたものだ。
それぞれの建物は数軒ずつ、ある程度はまとまって建てられているが、街全体でみると白と黒が秩序なく混じり合っている。
今までにない独特の雰囲気だった。
海と接するシラズメを全体的にみると、それほど高くない山から海にかけて傾斜を下るように街が広がっている。
傾斜の中腹に存在する学術院から来たアサヒは、もう少し下って海の方を歩こうかと考えた。
そうして通りの脇に造られた階段を、海を眺めながら下っていたとき。
階段の上、完全にアサヒの死角となったところから一人の男が降ってきた。
「すまない! 退いてくれ!」
アサヒがその声に気付き、上を向いたときには既に男は眼前まで迫っていた。
驚きで目を見開く、焦った顔の青年が一瞬だけ視界に入る。
避けようがない。
そんな思考もすぐに遮られ、アサヒは目の前が真っ暗になった。
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