第七十五話 学術院の書庫 一
とんとん、と控え目に部屋の戸が叩かれる。
「キキョウ先生、他のお部屋の掃除済みましたけれど……まだかかりそうですか?」
ルリの声だ。
「ああ、うーん……ちょっとだけ待って」
名残惜しそうにキキョウは神宝から離れる。すぐにハツメは天剣を腰に差し、天比礼もしゅるりとすくい上げて懐に仕舞い直した。キキョウの目が羨ましそうにハツメを見た後、戸の方へ向けられる。
「ルリくん、入っていいよ」
「失礼します」
穏やかな声、からりと開く戸、ルリが入室して一礼するまでが流れるように続く。
初対面からそうなのだが、このルリという女の子、話し方や動作が非常に丁寧でたおやかだ。あらたまっているというよりは身体に染み付いているような、洗練された雰囲気を持っている。
そんな彼女を見て、ああそうだ、とキキョウがぽんと手を叩く。
「君たちさ、書庫に行ってみたら?」
四神の資料多いんだよ、とキキョウは目を細める。
「ルリくん、この後の仕事は?」
「今日の仕事はこれで終わりですよ」
「じゃあこの子たちを案内してもらえないかな? ……この子たち、神宝に興味あるんだって」
キキョウが神宝という言葉をさらっと発したことにハツメは目を見開いた。その様子を見た彼は、ルリくんは大丈夫、と言いたげに小さく頷く。
「そうなんですか。良いですよ、ご案内します」
ルリは変わらず柔らかに微笑んでから、
「このお部屋はいつ掃除しましょう?」
困り顔になって散らかりきった部屋を見渡した。
キキョウは苦笑いしながら、また明日お願いするよと言って頭をかく。
「書庫の許可証はこっちで作っておくから。今日はなくても大丈夫だけど、作らないとちゃんと学術院と都を出入り出来ないだろう?」
忍び込んで来たのは、しっかりばれていたようだ。
時間もあることだしと、半ば成り行きではあるがルリの案内で学術院の書庫に行くことになった。
四人がキキョウの部屋を出て行く際、彼はハツメだけを近くに呼んだ。
「四神のことを知りたいなら学術院を利用するといい。小生が神宝を見ているときから、それについて聞きたくて堪らなかっただろう。顔に出ているよ、谷の娘さん」
そう囁いた彼の表情は、余生を語る世捨て人というよりは面倒見のいい先生という方が正しい、優しいものだった。
言動は読めないが、悪い人ではない。ハツメはありがたい気持ちで一杯になりながら頭を下げた。
学術院の敷地は、大まかに言えば円形に広がっているらしい。
そういえば忍び込むために塀に沿って歩いた際も、ほんの少しずつ緩やかに曲がっていったな、とハツメは思い出した。
きっちりとした円ではなく多少ゆがみはあるというが、それでも大昔に建てたことを踏まえれば大変な技術だ。
昔から海ノ国は学びが盛んで、知識人が研鑽を重ねていたに違いない。
その中の書庫はというと、円の中心部から少し東にいったところにあった。ちなみにハツメたちが初めにいた正門は南側、回り込んで侵入した胡桃の木は西側、キキョウの研究室は北側だ。短時間でぐるりと回っている。
「書庫の利用許可証が頂けるなんて、さすが先生のお知り合いですね」
先導するルリが振り向きながら微笑む。
「許可が下りるのは大変だと聞いたが、そうなのか」
「ええ。普通の人……わたしみたいな庶民ではまず無理です。わたしはたまたま掃除婦になった関係で書庫の出入りが許されています。あと時々、手伝いの名目で書物も読ませて頂いたり」
トウヤの質問に答えたルリは、えへへ、と照れるように笑った。
書庫の前に着いてまず驚いたのはその大きさだった。
ルリに聞けば建物は地上に七階、地下に二階の九層になっていて、面積もはっきりとは分からないがとてつもなく広く、一日に一階分の掃除が精一杯とのことだった。
艶々した白い大理石を積み上げて建てられたその書庫は、外に出っ張るように窓が付けられている。これだけ広いと窓の数も相当である。
中に入って、まず三人は天井を見上げた。
入り口から奥まで細長く続く広間の天井は、七階までの吹き抜けになっていた。途中、四階だろうか、一本の空中回廊が書庫の東西を繋いでいる。回廊の上を見ればちょうど一人の女性が、宙を滑るように東から西へと渡っていた。
空間を切り取ったような純白の天井から降りてくる清涼な空気を、ハツメは静かに胸に吸い込んだ。
視界を下に戻して辺りを見渡せば、数え切れぬ程の本棚が何列にもなって左右に広がっている。
歩く幅は残しつつも、空間を最大限に活かすようにぎっしりと並べられた木製の棚には書物も隙間なく詰められていた。
ルリの話では、建物の端まで行くと出窓の辺りに読書用の机と椅子が用意されているらしい。
神宝の書物は需要が少ないとのことで、書庫の地下二階、人の来ないような奥まった場所にあるそうだ。
階の昇り降りには建物の左右に造られた本来の階段を使うか、吹き抜けの通路に掛けられた木製の梯子を使わなければならない。
地下ということもあり、一行は元々の階段を利用して、目的の本棚に向かった。
書庫の地下は、空気の流れが滞ったような湿気は全くなく、肌に心地良い冷たさに満ちていた。むしろ地上よりも空気が澄み切っているとハツメは思った。
人二人が向きを変えずにすれ違える程度の幅を進み、ランプの明かりがこぼれるその一角に着く。本当に奥まった場所、建物の端に存在した。
本棚の横幅はハツメが両腕を広げれば抱きかかえられるほど。高さはハツメが手を伸ばしてもまだ足りない。飛び上がれば一番上の本を取り出せるかな、といった具合だ。
その本棚の三分の一ほどは神宝に関する書物らしい。
「本棚の中身にまで詳しいのね」
「内容はさっぱりですよ。海ノ神に関することだけ、ほんの少しです」
気になるものを持っていくといいですよ、というルリの言葉を受けて、ハツメは手が届く段で一番左の書物を抜いてみた。背表紙がないものが多く、ぱっと見ただけでは内容がわからない。試しに表紙を開いてみると、四角張った文字列がつらつらと並んでいる。
どうやら四神が大陸に降り立ったところが書かれているようだ。
どこまで知らない内容が入っているかはわからないが、ハツメはひとまずその書物を拝借することにした。
ここにいる間に全ての書物を網羅できるだろうか。
彼女がそう考えながらぱたんと本を閉じた瞬間。
「おい。邪魔だよ、庶民」
険のある声が耳に飛び込んできた。
四人が声のした方向に視線を移す。そこはハツメたちの本棚から十歩ほど歩く距離の場所。
立ち並ぶ本棚が薄暗い影をつくる中、一人の少年がこちらを忌々し気に睨んでいた。
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