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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第三章 海ノ国編
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第七十四話 大将執務室にて

 大陸では珍しい、透き通った板硝子。それが贅沢に何枚もはめ込まれた窓の一面を通して、軍議室に秋の澄んだ日光が射し込んでいる。


 自然光だけで十分明るいにも関わらず、今日のこの時間、この場所にはランプの火が揺らめく。ちぐはぐではあるが、錫ノ国の軍議に出る者には見慣れた光景だ。日中、よく晴れた日に軍議を行うとき、始まる前は必ずこの状況になる。


 他の全員が着席する中、一人の青年は滑らかな赤絨毯を優雅に歩く。そのまま窓際に近寄ると、窓に掛けられた薄黄の厚布をぴしゃりと閉めた。夜の帳が下りたように、軍議室が暗くなる。


「はい。じゃあ軍議を始めようか」


 身体を窓に向けていたイチルが振り返り、綺麗な笑みを浮かべた。


「イチル様。リンドウさんがいませんけど」


 帰ってきたんですよね、とこの場では最年少の子どもが口を開く。決して咎める口調ではないが、楽しそうでもない。


「あいつが軍議に出たことなんてあったか」


「あの馬鹿を気にするだけ無駄ですわ」


 エンジュが何の感慨もなく言えば、カリンは呆れたように頭の横で片手を払う。


「後で伝えておくからいいや」


 イチルもそう言ってふわりと席に着いた。


「イチル様もお二人も、リンドウさんに甘い気がするんですけど」


 やや恨めしくアザミが呟けば、言われた三人はちらりと少年の方を見る。軽い発言のつもりだったが、意外に反応を示した大人三人に彼は小さな身体を少しだけ引いた。


「……あの、子どもにそんな目向けないで下さい」


「あら。子ども扱いされたかったらまずその生意気な態度をなんとかして下さいませ」


 カリンが高飛車な態度でくいっと顎を上げる。その高圧的な目線に、アザミは反対に視線を落とすと口を結んだ。カリンとアザミは九歳差だ。純粋に、大人気ないと思う。


「ふふ。それにしても、リンドウくんが戻ると宮殿は賑やかだよね。そう思わない?」


 収拾をつけるつもりなどさらさらないイチルが楽しそうに三剣将の三人と、ついでに軍議に出席している他の全員に視線を投げかける。だがそれについては皆曖昧な反応をするだけで、心から同意するものはいなかった。




 いつもよりは砕けた調子で始まった軍議も終わり、カリンとエンジュは大将の執務室へと戻る。板敷きの廊下を進み、執務室の前。カリンが両扉の片側に手を掛けようとすると、先に室内の方から扉が引かれた。


 カリンの目の前には、一度は見たことがあるような女官が一人。頬は上気し目はとろんと潤み、夢うつつな表情だ。惚けた様子の女官だったが、一拍遅れて目の前のカリンに気付いたらしい。紅潮していた顔がみるみるうちに真っ青になり、唇が震え出す。


「し、ししし失礼しました……っ」


 それだけ言ってするりとカリンを避け、転びそうになりながら廊下を駆けていった。カリンが逃げていく女官を見やった後、再び執務室に視線を戻せば。


 布張りの長椅子にだらりと腰掛けて、乱れた軍服を整えるリンドウがいた。


「……お前は。軍議にも出ないで、人の執務室で、何をやっているのかしら」


「ああ、おかえりなさい。姐さんたちを待つ間暇だったんで、ちょっとだけ」


 満足気な顔で軍服の留め具を付けていく彼に、カリンは深く溜息を吐いた。


 カリンの後から部屋に入ったエンジュは戸を静かに閉めると、椅子に腰掛けてリンドウと目を合わせる。


「イチル様にご挨拶はしたのか」


「昨晩お会いしましたよー」


 イチル様も俺も夜型人間ですから、とリンドウがにやりと笑う。

 一緒にするなと叱責を浴びせようとしたカリンだったが、先に彼の方が口を開いた。


「ところで、聞きたいことがあったんです。谷の娘と一緒にいるあいつが第二王子ってこと、意外と知らないんすね、他の人」


 少し声量を落とすリンドウに、カリンの頭もすっと冷める。険がなくなれば、彼女もまた端正な顔立ちをしている。形の良い唇が品良く動く。


「余計なこと言ってませんわよね」


「そりゃあもう、俺だって考えなしじゃないんで。……で、隠す理由ってなんかあるんすか?」


 カリンは途中で説明を投げ出しそうだ。そう思ったエンジュが淡々と回答する。


「まず一つは第二夫人派だな。第二夫人の死去後、立場が無くなり逃げ出す者も増えている。追わせてはいるが何を考えているか分からん。第二王子なんて餌の存在を知らせるわけにはいかないからな。下に流す情報は少ないに限る」


「信用できる人間なんてここでも少ないっすからね」


 リンドウが意地悪く口の端を曲げた。

 エンジュも一度頷くと今度は渋い顔で、


「まぁそっちは知られても潰せば良いだけだ。あともう一つがややこしくてな。クロユリ様は一度第二王子を暗殺しようとしたことがあるだろう。生きていると知られたら放っておくわけがない、あのクロユリ様だぞ」


 後半はやや声を顰めるように、そう言った。


「……へえ。じゃあイチル様はあいつがクロユリ様に殺されないように、第二王子ってことを隠して手元に置きたいわけだ。なんかばれそうですけど」


「だからばれないように動いているのだ。あいつが第二王子だと知っているのは我々と、山ノ国の再会の場にいた直近の部下だけだ。……陛下の方は知らん」


「知らない奴らは第二王子のことを山ノ国の貴人か何かだと思わせてますわ。従者もいたから、それくらいはしょうがないでしょう」


 危ない綱渡りだということは、エンジュもカリンも重々承知だ。

 リンドウも、主が望むなら仕方ないと第二王子の素性を伏せる理由に納得する。ただ、先程の会話の中には彼に馴染みのない話があった。


「俺、第二王子の暗殺未遂自体初耳なんすけど。それっていつっすか?」


「……十年前だ。もうすぐ十一年になるが。第二王子が行方不明になったのと同じ時期だな。第二夫人が事前に逃がしたのだと、イチル様が仰っていた」


 先日主とした会話をエンジュは思い出す。


 十年前。陛下が第二夫人、そして第二王子を連れて地方へ視察した際、異能の力で暗殺計画を事前に察知した第二夫人が息子だけを逃がした。


 そのようなことを嬉しそうに話す主を見るのはエンジュには辛かった。その時期のイチルにあった出来事を、彼は垣間見ているから。


「行方不明? ……覚えてないっす」


 リンドウは首を傾けると、そのまま長い襟足を弄ぶ。細い毛束がくるくると彼の長い指に絡み、軍服の襟を撫でる。


「あれだけ騒ぎになったのに、覚えてませんの?」


 カリンが信じられないというようにリンドウを見ると、彼は少しだけ目を細め、嫌味っぽく喋りだした。


「昔のことは極力忘れるようにしてるんで。第二王子はなんかてきとーに死んだんだと思ってました。……しっかし、よく十年前のあの時期に暗殺計画なんて、クロユリ様も随分と呑気でいらっしゃる」


「……口を慎め。イチル様のお母上だぞ」


「しつれーしました」


 たしなめるエンジュにリンドウは軽く答えると、すっと立ち上がる。


「じゃ、知りたいことも聞けたし俺は王都に行ってきますね」


 今日はどこで飲もうかなー、と執務室を出たリンドウを、エンジュとカリンは無言で見送った。必要ではあったが、リンドウでなくても忘れたい時期の話だ。胸中から消えない不快な残渣に、二人はそれぞれ息を吐く。


 しばらくして、エンジュがおもむろに口を開いた。


「……ところで、あいつ仕事は」


「さあ。貴方がアザミにでも回しておきなさいな」


 そう言ってさっさと自分の執務を始めるカリンを見て、エンジュは今しがた遊びに行った男の仕事を確認しに部屋を出るのだった。

お読み頂きありがとうございます。

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