第七十一話 海ノ都シラズメ
花ノ神と山ノ神が旅立った後に、一柱残る仲間を置いたまま谷ノ地を出た神がいる。その神が胸に哀しみを抱きながら彷徨い歩くと、辿り着いた先は北の海だった。神はその身に溜まった哀しみを海に流すと、自身を海ノ神と名乗る。そしてその一帯を己の土地として、繁栄をもたらした。
その海ノ神によって栄えたのが海ノ都シラズメ。古来からの文化と新しい文化が混ざり合い独特の発展を遂げたシラズメは、大陸一の学術都市として栄えている。
そんなシラズメの学術都市としての象徴が、学術院だ。そこには国内外から知識人が集い、自身の研究を行うとともに学生たちに教鞭を振るう。
このような大陸一の学び舎が海ノ国に出来たのは海ノ神の意向によるものか、元々の国民の勤勉さによるものか。あまりに歴史が古いため分からないが、ここで学ぶために多くの人間が海ノ都を訪れる。
とはいえ、いくら慈悲深い海ノ神の国といっても、入学の門戸が広いわけではない。
よほどの富裕層か、もしくはその富裕層が出資してくれるだけの将来性のある人間のみが学術院で学ぶことが出来る。
学生にならずとも書庫の利用は可能だが、それも多額の金銭と誰かしらの推薦が必要だ。
つまり、何かしらの後ろ盾がないと学術院に出入りできないのだ。もちろん、素性がはっきりしていることは必須なわけで。
「……どうする」
学術院の門を遠目で眺めながらアサヒが前髪をかき上げる。
石造りの白い門は結構な大きさで、高さは大人の丈の二倍、幅は大人二人が手を広げて並んで通れるくらいだろうか。門の両端から横には同じく白い石造りの塀が延びる。
門から先は広い石畳が続いていて、道の両側には白樺が立ち並んでいる。学術院自体はまだ先のようで、ここからだと小さくでしか建物を確認できない。金を掛けているな、というのがアサヒの感想だ。
門には見張り、とは言っても一般人だと思うが、大人が二人姿勢よく立っていて、人の往来を監視していた。
「先程のご婦人の話だと、俺たちは絶対入れぬだろうな」
トウヤが難しい顔で答える。三人は都に入って一番に情報収集を行っており、その際にトウヤが気の良い女性から学術院の話を聞いたのだ。
「忍び込むしかないんじゃないかしら?」
考え込む様子もなく話すハツメ。彼女のこざっぱりした表情を見てトウヤはにやりと笑う。
「そういうのがさらっと出る辺りがハツメ嬢らしいな」
「ああ。でもそれが良いと思う」
アサヒも嬉しそうに頷けば、三人は早速門から塀伝いに学術院を回ることにした。
侵入口は思いの外早く見つかった。
敷地の裏の方に行けば、斜面から胡桃の木が塀に若干寄りかかるように生えていたのだ。この生え方を見るに、木の成長より先に塀が作られたものと思われる。改めて、学術院の歴史の長さを感じさせられた。
「では俺が先に登ってみて、向こうを覗くとしよう」
そう言ってトウヤが、とんとんと軽やかに木を登っていく。ある程度の高さまでいった彼が塀の向こう側を確認すると、下で自分を見上げる二人に声をかけた。
「大丈夫そうだ。人の気配はないし、向こう側にも降りられる」
「助かる。……じゃあハツメが先に登るといい。何かあったときは助けるから」
さすがに女子を一人残すのは、そう思ったアサヒはハツメの安全にも気を遣ったつもりなのだが、彼女はそれをすぐさま断った。
「待って。大丈夫だから、アサヒが先に行って」
「でも……」
「大丈夫よ。……私、この格好なの」
少し言いにくそうにしてハツメが自身の格好を差す。今は袴をはいておらず、村で恵んでもらった着物姿のままだった。
「あ……ああ、悪い。じゃあ先に行くから、気を付けて」
気まずくなったアサヒはそれだけ言って木を登り始める。既にトウヤは向こうに降りたようだ。足を掛けながら、ハツメもそういうことを気にするようになったのだなと考えていた。
特に何事もなくアサヒ、ハツメの順で塀の内側に降り立つ。
少し着物を整える、そう言ってハツメは二人から離れて行った。
いまだに気まずそうにしているアサヒを見て、トウヤが小声で話しかける。
「どうした、ハツメ嬢に怒られたか」
「なっ……お前分かってて先に行ったのか」
アサヒがトウヤの言葉に渋い顔をすれば、彼はしてやったりとでも言いたげに口角を上げた。
予想よりも簡単に学術院に忍び込めた三人だが、ここから先が問題だ。訪ねるべきキキョウという人物の居場所はもちろんのこと、彼が花ノ国出身の教員ということ以外何も分からない。
さすがに誰かに聞かなればならない、そういう意見でまとまり、適当な人を探すことにした。
建物内には入らず、敷地内の芝を踏みながら辺りを見渡す。昼下がりの今の時間は人が少ない。講義でもしているのかとハツメが建物内を覗こうとしたところで、前方から話し掛けられた。
「お疲れ様です。どうかされましたか?」
声がした方に視線を移すと、薄手の暗紫色の着物に白い前掛け、白い三角頭巾を頭に付けた女の子が穏やかに微笑んでハツメたちを見ていた。
頭巾の下のふわりとした黒髪は頭の低い位置で二つに結ばれている。鎖骨の辺りで大きな二つの髪束がほわほわと浮いていた。
見るからに優しそうな同年代のその子は、自身をルリと名乗った。
「私、ここの掃除婦なんです。何か探してらっしゃいますか? お困りでしたらご案内しますよ」
そう言って、たおやかに笑う。ハツメがちらりと他の二人を見ると、どちらもこくりと頷いた。
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