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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第二章 花ノ国編
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第六十七話 シン 三

 アカネとの御目通りが叶ったのは一週間後だった。


 寝床から出られず、ただ上半身を起こしただけのアカネ。見えるところだけでも擦り傷、切り傷が赤く残り、痛々しい痣もみられる。それが色白の美しい顔にまであるものだから、シンはアカネと顔を合わせた瞬間固まってしまった。


 自分が召し抱えられた晩に見た男の顔が、シンの頭に浮かぶ。間違いない、あれが国王陛下だ。


 暗い目に渦巻いていたのは、おそらく嫉妬心。


「ごめんなさいね、シン。側近にでもしないと皆引いてくれないと思って」


 頭が真っ白になったシンが何か言葉を探す前に、アカネが柔らかく笑う。


 どうして気付かなかったのかと、シンは己の浅はかさに愕然とした。


 錫ノ国の者ではない自分。

 はっきりした身分をもたない自分。

 そんなことはどうでも良かった。


 それはただ自分が男である故。


 アカネは知っていてあのとき自分に手を差し伸べた。運命を共にしてくれるかと聞いてくれた。


 共にするなど。


 いつか離宮の外を見せたいと思っておきながら、アカネにさらなる足枷をはめたのは自分ではないか。


 シンはアカネの前に跪き、頭を垂れた。


 どのような言葉を重ねても伝えることのできない悔恨と感謝の思い。自分の何を捧げてもこの恩は返しきれないと、彼は口を開く。


「生涯をかけて貴女様に尽くします。……いえ。たとえこの生涯を終えようとも、私の忠誠は永久にアカネ様のものです」


 宮殿で年頃の男を召抱えるということの意味を、彼はこのとき初めて知った。




 シンが宮殿に入り数日が経った頃。使いの途中、廊下の先からけばけばしい着物を羽織った女性が歩いてきた。後ろには、思わず目に留めてしまう金色の髪の少年。年はシンと同じくらいか。


 咎められないよう、すぐに二人から視線を外し廊下の壁に沿うように控える。頭は下に。


「あら。そこにいるのはもしかして、第二夫人の『燕』ではなくて?」


 楽しい玩具を見つけたようにクロユリはシンに声を掛ける。


「……アカネ様はそのような方ではございません」


 シンは顔を上げず、くぐもった声で小さく答えた。


「あらそうなの。陛下の前では純情を気取っておいて、影では色々と楽しんでいるのかと思ってしまったわ」


 ごめんなさいね、と嘲笑する。


「まあでも、それなら貴方が実際に若い燕になってみなさいな。そうすれば陛下も気付くかもしれません、あの女に騙されていることに」


「……失礼します」


 降りかかる呪詛のような言葉に頭がぐらぐらした。

 これ以上は耐えられず、足早にその場を後にする。


 離れる瞬間、クロユリの顔は見れなかった。どうせこちらを愉快気に見下しているに決まっている。


 その代わりにちらりと見た金髪の少年は、ただ無表情でこちらを眺めていた。よく出来た人形のようだと、シンは思った。


 二人から逃げるシンの背後で女の甲高い嘲笑が響く。

 廊下の角を曲がったところで、シンは駆け出した。


 強くならねば。

 自分のことでアカネ様が傷付くなど、あってはならない。

 あの悪意を跳ね除けるだけの力を付けなければ。

 アカネ様をお守りできる力を。


 そう心に誓ったシンは大きく息を吸い込むことで、熱くなった胸を、目頭を、無理やり押さえつけた。




 それからシンとアカネは宮殿で共に生き抜いた。


 大きくはないがアカネの派閥が出来上がると、クロユリは厄介者を追いやるために離宮を建て、アカネたちを押しやった。本人たちにとってはかえって好都合だった。


 そういったこともあってある程度落ち着いた暮らしができていたにも関わらず、シンとアカネが出会ってから七年後、アカネは病に伏す。

 シンはもちろん国王も善処を尽くしたが、もう長くはないとのことだった。


 そんなアカネの命の灯が消えようとしていたとき。




「他に誰もいませんね、シン」


「はい」


 寝床に横たわるアカネが、隣で膝をつくシンに話しかけた。


「まもなく陛下がきますから、要点しかお話しできないのを許してね」


 前置きから謝ると、彼女は喉の奥から小さな声を絞り出して話し始める。


「お願い、聞いてほしいの」


「お願いなど。ご命令下さればどんなことでも致します」


「ありがとう。でもこれはやっぱり、お願いだわ」


 申し訳なさそうに微笑んだアカネはそのまま話を切り出した。


「私の息子……ヒダカは生きてるの。この異能(ちから)で知ってた」


 初めての告白に、シンは目を見張った。


「今はどちらに……」


「谷ノ国にいるの。アサヒと、そう名乗らせているわ。あそこなら絶対見つからないと思っていたけれど……クロユリたちは谷ノ国に出兵しようとしているでしょう」


 アカネの目が潤む。


「どうか息子を助けて、シン。あの子にだけは、どんな形でもいいから生きていて欲しい」


 縋るような目でシンを見る。青白い唇が少しだけ震えていた。


「……かしこまりました。必ずやお救い致します」


 主を安心させるため、目を細めて力強く答えるシン。それを見て、アカネも顔を綻ばせた。


「ありがとう。……私ね、シンに出会って良かったわ。息子は手放さなければいけなかったけど、貴方のお陰で宮殿(ここ)での生活も心安らぐものだったし、楽しかった。良い人生だったと思うの。それなのに、貴方の人生を奪ってしまってごめんなさい」


「どうか謝らないで下さいませ。私はアカネ様に命を救って頂いた身。それに何よりも、私は貴女様にお仕え出来て幸せなのです、アカネ様」


 身に余る言葉に心を打たれながら、シンは深く頭を下げた。


「シン……ありがとう」


 アカネは自分に頭を垂れるシンを見つめる。七年間だが、振り返ればもっと長かったように思える。宮殿で苦楽を共にしてくれた一回り年下の青年に、アカネは優しく微笑んだ。


「さあ、もう行って。陛下が来ます。……息子をお願いね」


「もちろんです。私の忠誠は、永久にアカネ様に捧げております。それはご子息も同様です。……それでは、失礼いたします。アカネ様」


 離れたくない。それでも行かなければと、シンは重い足を動かす。

 こみあげる哀しみが外に溢れ出る前に、シンはアカネに再度一礼すると、主の部屋を出た。


 急ぎ準備を整え、谷ノ国へ。目印は『アサヒ』という名前。

 その日シンは誰に気付かれることなく、宮殿を出た。

お読み頂きありがとうございます。

こちらでシンの回想は終わりです。

次回は花ノ国に戻りまして、第二章最終話になります。

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