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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第二章 花ノ国編
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第六十五話 シン 一

 シンは大陸の北の果て、海ノ国の小さな村で農家の夫婦の三番目として生まれた。

 八歳の時に村の作物が不作になり、たまたま村を訪れた行商に自らを連れて行くよう頼んだ。口減しになろうと考えたということもあるが、一番の理由は元々あった行商への興味である。


 そこからは行商に付いて世界を廻る日々。

 どこも短期間の滞在だったが、唯一長居したのは山ノ国。そこで三年間修行を積み剣技を修めると、山ノ国を出てからは一人で生きてきた。


 良いことも悪いこともそこそこ経験した彼は、十六歳のときに初めて錫ノ国に滞在する。

 これまで錫ノ国に足を踏み入れなかったのには治安が不安定だったという理由があるのだが、一度入れば住みやすいような、住みにくいような。行商の仕事からすれば長期滞在には向かない土地だった。


 錫ノ国はもともと荒野が多く、森林や丘陵が少ない地形にある。

 王都もそれに当てはまり、主に薬草といった自分で調達したものを売って生活していたシンは何かと不便を強いられた。だからといって生活に困窮していたわけではないのだが、日々の退屈さも相まって、王族の住む宮殿内の森林に忍び込んでは採集や狩りをして遊ぶようになった。


 王都に慣れた頃にはその頻度も増えていたから、アカネと出会ったのも偶然ではなかったのかもしれない。




 よく晴れた日、宮殿の森に忍び込んだシンが木の上で道具を手入れしていると、かさかさと音が聞こえた。

 見下ろせば一人の女性が歩いている。

 ここに人がいるのが珍しく何の用かとしばらく観察していると、どうも用事はないらしい。

 蔓の張った木だったり、控えめに咲く花だったり、湿った地面に落ちた木の葉だったり。とにかく彼女は目に留まったものを観察して楽しんでいるようだった。


 しかし、どうも危なっかしい。葉で手を切ったり、木の根に突っかけたり。

 外を歩くことを知らない少女のようだ。

 ついには仙人草に手を伸ばそうとしたので、思わず声を掛けてしまった。


「おい。それには毒があるぞ。かぶれるんじゃないのか」


 上から声を掛けられて驚く女性。

 シンは木からすとんと降り立つと、改めてその女性を見る。


 腰まで下ろしたさらりとした黒髪、透き通るような色白の肌。形の良い目を長い睫毛が縁取り、少し薄めの唇は桃色に色付いていた。


「ありがとう。……どうやら宮殿(ここ)の人ではないのね。忍び込んで来たの?」


 女性の声を聞いてシンは、見た目ほど若くはないのだな、と思った。

 おそらく三十歳手前の、落ち着いた声だ。


「ああ。都会過ぎるというのも退屈で、思わず」


「私もよ。宮殿の中にいたって退屈で、息苦しいもの」


 そう言って微笑む女性はシンが忍び込んだことには何も触れなかった。


「錫ノ国は栄えているから、さぞかし宮殿内では楽しい思いをしているのかと思ったが。実際は違うのか」


 言い終わった後に少し皮肉らしかったかと思い、シンは軽く唇を噛む。


「あら、そんな風に思われてるの?」


 彼女は意に返さない様子で、首を傾けてくすりと笑った。


「もし良かったら、宮殿の外の様子を教えてくれない?」


 シンにそう問いかけた女性は最初に感じた少女のような雰囲気とは違う、思慮深そうな、理知的な目をしていた。


 あどけない少女と聡い貴婦人が同居したような女性というのが、シンのアカネに対する第一印象だった。




 次の日もシンは宮殿の森へ忍び込む。昨日の女性に会えないかと思ったからだ。

 木の上でぼんやりしていると、今度はアカネからシンに話しかけて来た。


「こんにちは」


 シンは木からひらりと降りる。


「昨日は失礼しました、アカネ様」


「あらやだ。もうばれちゃったの?」


 アカネはくすくすと笑う。


 シンは初め彼女の質素な着物姿から女官が何かと思っていたのだが、昨日の会話の中に引っ掛かりを感じて少し調べたのだ。いくつかの噂を聞けば、あの女性は第二夫人だったとすぐに分かった。


 十二歳で宮殿に入り、昔も今も国王の寵愛を一心に受けている第二夫人というのが、アカネである。


「あなたはどこから来たの?」


「それはまあ、王都です」


 しれっとした顔で答えるシンにアカネは苦笑する。


「そうじゃなくて。生まれよ。錫ノ国じゃなさそうだから」


「ああ、海ノ国です」


「まあ。じゃあ海を見たことがあるのね」


 長い睫毛を数回揺らして、目を輝かせるアカネ。


「錫ノ国にも、海はありますが」


「あっちには行ったことがないのよ。ここに来てから外出したことなんて、実際数えるほどしかないわ」


 最後に出たのは三年前かしらね、アカネは目を細める。美しい微笑みだが、どこか儚げだった。


「海、見てみたいのよ。書物でしか知らないんですもの」


 その言葉を聞いてシンは何となく、この女性に海を見せてみたいと思った。


 昨日出会ったばかりの相手だというのに、どうしてかこの女性の質問には素直に答えてしまうし、要望には応えたくなる。


 とはいえ、じゃあ見に行きましょう、とは言えなかった。

 国王の第二夫人というアカネの立場を考えれば当然だ。


 その代わりでもないが、シンは海ノ国のことを始め、宮殿の外の世界についてアカネに語り出した。アカネは時折自身の感想を述べながら、楽しそうに彼の話に耳を傾ける。

 二人とも、こんなに誰かと話をしたのは久し振りだった。




 このような日が二週間ほど続いた。

 シンはアカネに会いに行くのが日課になり、色褪せていた生活の中の唯一の楽しみになっていた。


 いつも通り他愛もない会話をしていたシンとアカネだが、会話中に突然アカネの頭がくらりと揺れた。彼女はそのまま白い手で両目を覆う。


 少し経つと、彼女は自身の腕を下ろしふう、と息を吐いた。心配するように付き添っていたシンに、彼女は柔らかく笑いかける。


「大丈夫よ。時々あるの」


 何が起こったかまでは言わなかった。その代わり、彼女はぽつりと話す。


「私ね、息子がいたのよ」


 息子が『いた』。

 過去形なのは、シンも知っていた。三年前に国王と共に視察で地方を訪れた際に行方不明になり、結局見つからなかったという話は錫ノ国では有名だ。母子で森を訪れ、はぐれたという話も。


「それは……」


 シンは何か言いたかったが、続く言葉を見つけることは出来なかった。

 それは、気持ちとしてももちろんそうなのだが。

 何よりも、二人を取り巻く状況がそうさせなかった。


 二人は数人の宮殿の兵士に囲まれていた。


「なんだ。男がいるぞ」


「部外者にしか見えん。別に一緒に殺ってしまっても構わないだろう。……むしろ、この男が賊で、第二夫人を殺したところを我々が仕留めたことにすれば良い」


「それもそうだな」


 そう話す男たちの手には抜かれた剣。

 燦々と森に降り注ぐ日の光を浴びて、無機質な刃がぎらりと光った。

お読み頂きありがとうございます。

一話で終わる予定だった回想ですが、字数の関係で三話構成になりました。

目算が甘くて申し訳ないのですが、何卒よろしくお願いいたします。

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