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谷の橋姫 錫の日高  作者: 古千谷早苗
第二章 花ノ国編
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第六十三話 逸走 五

 ハツメやトウヤとは反対を迂回するように、シンとアサヒは橋を目指していた。


 近付く錫ノ国の兵士を二人で難なく薙ぎ払う。


 このままいけば楽なのだが、間違いなくあの三人の誰かは来る。命令次第では全員かもしれないと、シンは腹をくくっていた。


 真っ白な月に照らされたかさつく草原に鮮血が舞い、生々しい熱を持って地面に落ちる。


 ある程度の兵士を屠ったとき、シンの肌を刺したのは刺々しい殺気。


 振り返れば、早々に追い付いたカリンがシンを睨み付けていた。

 一つに結った三つ編みが時折吹く風に靡いている。


「貴方はここで死んで頂きますわよ、第二夫人の側近」


 シンは周囲を確認する。

 カリンの側にはエンジュ。そして新たに寄ってきた無数の一般兵。


 リンドウがいない。

 彼のことは詳しくないが、噂通りの人物であれば。


「ハツメ様は生かさないのか」


 シンの言葉にカリンの目がさらに険しくなる。


「当然ですわ。ああ、おいたわしいや、イチル様。あんな小娘と神宝(かんだから)の所為で……」


 彼女は自身の体を抱え、怒り苦しむように、ここにはいない主に想いを馳せる。

 掴んだ腕には形の良い爪がぎりりと立てられていた。


 カリンの様子を受けてシンは思考を巡らす。


 アザミの話によると、国王はハツメ様と神宝(かんだから)を使うことでアカネ様を生き返らそうとしている。

 神宝(かんだから)を持たせてハツメ様を生かして連れて来い、というのが国王の命だ。


 一方でカリンはハツメ様を殺すと言っている。ということは、第一王子のイチルは国王の目論みを知らされていない。彼が知らないのなら第一夫人のクロユリもそうに違いない。

 もっとも国王がアカネ様を生き返らそうとしていることをクロユリが知れば、ただでは済まないだろうが。


 大陸を献上したいクロユリなど視界にも入れず、国王は死んだアカネ様に執着し続けている。


 こんな本人たちすら知らない内情を、自分がわざわざ教えるわけもないが。


 そこまで考えて、シンは微かに口角を上げた。


「国王とクロユリに振り回されて、お前たちも可哀想だな」


 お前たちの中にはイチルも入っている。

 皮肉めいたその言葉にカリンは逆上し、荒々しく剣を抜いた。




 シンとカリンが対峙する近くで、エンジュはアサヒと向き合っていた。

 彼は剣を握るアサヒを見て息を吐く。


「……お前が黙って一緒に来てくれるなら楽なのだがな」


「以前無傷で連れ帰るとお前たちの兵士が言っていたが、どういうことだ」


 警戒を崩さずアサヒが問う。


 首を持ち帰る、なら一番理解できる。

 しかし山ノ国でのイチルの発言を踏まえたとして、傷付く自分を見たがっている、それも分かる。


 しかしそれでも尚、無傷でないといけない理由がアサヒには想像できない。むしろ痛み苦しんでいる方が良いのではないかと思う。


「まあ、山ノ国でのあれだけでは分からんか」


 エンジュは感情のこもらない声で答える。


「イチル様はお前を御所望なのだ、ヒダカ王子。他の者に傷を付けられるのが許せない程にな。だから出来るだけ、傷一つない綺麗な状態で届けるようにいわれている」


 まあ向こうに着いたらどういう扱いになるかは知らないがな、とエンジュは胸中で呟く。


「気持ち悪いな」


「俺の主なのだ。そう言ってくれるな」


 エンジュの大きな体躯がアサヒに迫る。剣は抜いていない。誤って傷付けたりなどしたら主に顔向け出来ないからだ。


「随分と舐められているんだな」


 アサヒは武器を持たぬエンジュにも容赦無く切り掛かる。全力で臨まねば敵わない相手なのは山ノ国で重々承知だ。


 間を空けぬアサヒの攻撃。数回剣を振るったところで、彼はエンジュが絶対に避けられないだろう角度から勢いよく剣を振り下ろす。


 金属同士がぶつかる固く鋭い音が響いた。


 肉を断つ感触を覚悟していたアサヒは苦々しく思う。

 剣を持たずとも相手の刃を止められるよう、エンジュの袖の下には手甲が仕込んであった。


「……血筋というべきか。予想以上に強くなっているようだが、俺たちと張り合うにはまだ足りぬ」


 そう言って男はアサヒの白い腕を掴む。


「積み重ねてきた人生が違いすぎる。諦めろ」


 エンジュがアサヒの意識を落とそうと首に手を伸ばしたその時。


 音もなく、気配もなくそれは現れた。


 アサヒの背後から突如伸びる手甲鉤。

 顔に迫る黒い刃にエンジュは堪らず彼の腕を離し、一歩下がる。


 アサヒも突然頭の横から出現した見慣れぬ四本の刃に驚きつつも、体勢を立て直す。


 アサヒが振り向くより先に彼の前に歩を進めたのは、長髪を靡かせた黒装束の男。


 その横顔は下半分が隠れているが、アサヒもよく見知った人物だった。彼が名前を呼ぼうとした瞬間、


「名前を呼ぶんじゃないぞ」


 思考を読まれたのか、冷静に釘を刺された。


「本来は姿も現さぬ。声も発さぬ。いるかいないか分からないように動くのが『猫』なのだが。どうも最近調子が狂う」


 そう言ってアサヒを見つめる。


「礼ならレイランにするんだな。俺はただあいつの願いを叶えに来ただけだ」


 男の特徴的な猫目が柔らかく細まった。


「さあ行け。『猫』が足止めになってやる」

お読み頂きありがとうございます。

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