第六十二話 逸走 四
ハツメたちがいなくなったアオイ御所。
御所周辺で起こっていた錫ノ国の集団との衝突はあっさり収まり、レイランは自室の椅子に腰掛けて外を眺めていた。
大きく冴えた満月が少女の不安を煽る。
草原にもこの無情な光が降り注いでいるに違いない。
ただ眺めるだけならば美しいの一言で済むが、身を潜めて逃げなければならない者には余計でしかないだろう。
御所での衝突があっさり終わったのは相手が早々に引き上げたからだ。上手く四方に逃げたようだが、行き先はアオイ草原と聞いている。嵌められたのだ、とレイランは目を伏せる。
「……兄者は気付いておったのか?」
横に控えるヒメユキに呟くように問う。
「いや。可能性は視野に入れていたが、まさかこんなにあっさり引き上げるとは思っていなかった。あの時点では間違いなく抜け穴の方が安全だった。嘘ではない」
ヒメユキがレイランに嘘でないと言えば、そうなのだろう。
「上手く逃げられるかのう」
「正直、難しいかもしれないな」
冷静に返すヒメユキを、レイランは縋るような目で見る。
「……やはりこちらで軍を出すことは出来ないのじゃな?」
「単なる旅人のいざこざに、軍は出せない」
世話になったのとは別問題だ、とヒメユキの目は語る。花ノ国の軍を動かすということはそれだけ重いことなのだ。
「そうじゃ、ハツメは天比礼を持っておるから、それを理由に……」
「天比礼は対外的には失われたものになっている。本来あそこにあるものではないのだ、レイラン」
必死にハツメたちへの援軍を訴えるレイランだが、その言葉を彼女の側近は冷静に却下する。
少女の目にじわりと涙が浮かんだ。
「……どうしてじゃ! 大陸一栄える商業国家の女皇であるわらわが、どうして友達の1人も助けられぬのじゃ! 行けるものなら、わらわが戦いたい……」
大粒の滴が彼女の上質な着物にはたはたと落ち、丸い染みをつくる。
ヒメユキは胸を押さえながら一度目を瞑る。
短くない時間、彼はレイランの啜り泣く声を聞きながら葛藤した。
そうして再び目を開ければ膝を付き、俯く妹の顔を覗き込む。
「すまない。レイランにこんな顔をさせるとは、側近としても、兄としても失格だな」
視界が滲む中レイランが見た彼の目は、ただ純粋に妹を想う兄のものだった。
「『猫』を出す。文官にも武官にも、誰にも文句は言わせん。だからもう泣くな、レイラン」
「兄者……我儘ですまぬ。行かせるわらわに言う権利などないが、無事に帰ってきておくれ」
「その言葉をもらえればちゃんと帰ってこれる。お前はいつも通り笑って待っていろ」
そう言ってヒメユキは妹の頭を撫でる。
彼女が泣き止んだのを確認して目を細めると、彼は黒い長髪をなびかせながらレイランの自室を後にした。
回廊でぴたりと立ち止まると、彼は懐から一つ、純銀の丸い鈴を取り出す。
鈴に括り付けられた紐を摘んで軽く揺らせば、澄み切った金属音が辺りに響いた。
その音で集まったのは、黒装束の人間がざっと二十人ほど。
「レイランの命だ。アオイ平野にて交戦中の旅人一行を野党から逃す。行け」
黒の集団は返事もなく散り散りになり、月光がつくりだす夜の影に消えていった。
「……俺も急ぐか」
文官姿のヒメユキはその羽織っていた衣を脱ぎ捨てる。下に着ていたのは先程の『猫』と同じ黒装束。
全てはレイランのため。
側近であり、兄であり、『猫』の部隊長でもある彼は戦場となっている草原へと向かった。
草原では、ハツメとトウヤがリンドウからの振り切りを図っていた。
「まあそうだよな。弓だけだと、女庇えないもんな」
馬鹿にするように笑うリンドウの前で。
背後にハツメを庇うようにトウヤは剣を構えていた。
「ハツメ嬢。戦うなとは言わないが、自分の身体を大事にしてくれ」
「……うん」
眼前の敵を見据えながら話すトウヤに、ハツメはこくりと頷いた。
「身体を大事にねえ。せっかくの色男なのに、話が合いそうもないな」
「お主と話が合ったりなどしたら死にたくなりそうだ」
そう言いながらお互い距離を詰める。
間合いの長さを考えれば槍が圧倒的に有利だが、リンドウが扱っている特に大振りのそれは一度懐に入ってしまえば怖くない。
トウヤは彼の突きを半身で躱すとそのまま胸元目掛けて斬撃を繰り出した。
「剣の腕も中々なんだな」
「お主に言われたくないぞ」
余裕のあるリンドウの言葉にトウヤは顔を顰める。
咄嗟に槍から手を離したリンドウもまた、腰から剣を抜きトウヤの動きを止めていた。
だがそれも一瞬。
リンドウは横からの嫌な気配に飛び退く。
ハツメが彼に向かい天剣を振りかざす瞬間であった。
漆黒の炎を映すように彼女の黒い瞳もまた、煌々と輝きを放っている。
「振らすのも駄目って結構きついなー」
二人から距離を取ったリンドウが苛々しながら自身の長い襟足を弄ぶ。
さてどうしようかと彼が思案していると、花の甘い香りが漂ってきた。
季節は秋だ。秋にこんな香りを放つ花なんてあっただろうか。
思わず彼が周囲を見渡せば、視界に飛び込んできたのは絶世の美女。
「これはまた素敵な殿方。私と遊びましょうか」
女性が首を傾ければ黒髪がさらりとその艶めかしい身体を滑り、白い首筋があらわになる。
リンドウは思わず唾を飲み込んだ。
「そりゃあぜひとも。……と言いたいところだけど」
彼はちらりとハツメを見やり、再びミヤへと視線を戻す。
「優先順位変えたら姐さんに怒られるよな」
「見る目のない男だ。ハツメ嬢、走るぞ!」
トウヤは一度彼を睨むとすぐさまハツメに声を掛ける。
リンドウを離れていく直前、ミヤと目が合った。
お行きなさいな、そう言って彼女は艶やかに笑い、流れるように小太刀を抜いた。
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